宇宙対向の静電氣 その2 | カタカムナの共鳴

カタカムナの共鳴

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「イキモノ」 と 「モチモノ」 の間

 近代に興った科学という考え方も視える範囲にあるものだけを扱ってきた。実験的に(わざとそのような状況を作ってから)観察してそれがあるのかを実際に確かめる方式である。科学という考え方は唯物論を唱える学者の方に偏っている。彼らの考える宇宙観は「視えるものがたくさん集まって出来たもの」という認識である。すべて時間と空間の関わりで表すことができると思っている。彼らの考える自然界は有限の宇宙に包まれている。

 

 しかし、科学を追求していくと、観察の背後にある観念を数として捉へ、数をある種の記号で表し、記号と記号の関わりから数と数の間にある規則を求め、観察したものを表すことができると分かった。有限の宇宙は科学の分野でも無限として扱えるのだ。

 

 二十世紀に入ってから現代の科学は相対的な大きい小さいの概念を捨てて絶対的な大きさの概念を定める必要に迫られた。究極の粒には波も重なり折り畳まれているという概念を導入し、ものと勢力の発生源は同じだとする量子論がボーア教授によって唱えられた。そのあと多くの学者たちが力を合わせて量子力学を確立するに至り、長い伝統の科学の考え方を根底からくつがえした。

 

 この画期的な量子論の概念は昔の日本のイサナミとイサナギ、並びに昔の中国の陰気と陽氣の考え方に近づいてきた。日本は天體という大きなものを観察して絶対の状態がどういうものかという原理を引き出し記号化した。近代科学においては光という小さな変化を観察することから粒と波は一緒に重なり折り畳まれているという原理を引き出した。それぞれの原理は似ており、絶対の状態とか粒に波が折り畳まれているという概念は従来の常識の影響を受けて多くの誤った推論を生み出した。絶対の状態と折り畳まれた状態については少し説明が要るのかもしれない。

 

 私たちは止まっている状態と動いている状態を他と比べて、別個のひとつの状態として感じることができる。すなわち視えるひとつの状態は相手の状態と比べることで決まるので相対の概念を基礎に置いている。昔の日本の考え方をふり返ると自然界は天體が規則的に動きつづけることで成り立つため、視えるものは常に動いていると言っていた。しかし天體のように自然に動く状態は間界(マカイ)の止まっている状態と向き合い、動いているのと止まっているのが一体化された絶対の状態におかれている。従って絶対とは動いているものと止まっているものが掛け合わされながら、片方しか視えない(片方は視える)状態におかれていると昔の日本人は言うのである。言い換えれば自然界と間界が一体化している宇宙は絶対の立場(止まっているものと動いているものの中間)にあり、常に絶対の状態を続けている。従って自然界において自由に半面づつ状態を変えて現れるものを元から結びついている半面を切り離して独立させ、いつも動いている、あるいは止まっている状態に固定することはできないという観念があった。

 

 もうひとつの折り畳まれた状態というのはものと勢力が同じ所から生まれるという意味である。量子論でいわれる量子とは止まっている状態と動いている状態のどちらか片面が表に出ていることを言い、止まっていればものとして、動いていれば勢力として感じられる。ひとつの状態がふたつの状態に分けられてゐるという見解は中間の状態をもたらす。中間には動いているものと止まっているものが内在しており、バランスが取れて絶対の状態が成り立ってゐる。

 

 しかし近代科学はものが独立してそういう性質を持つと考えており、昔の日本とは根本的に考え方が異なる。粒と勢力が同時に存在する原理から出発しても、その性質が物に依存しているのか、物によらずそういう力を受ける環境があって現象するのかで帰着点が異なる。近代科学や唯物論はもの単体を独立して視る傾向にあり、そのものに関連する色々な要素を無視することが往々にしてある。また反対に観念から導き出す物理法則は物事の関わりを見過ぎる傾向があり、物事の関連する範囲を大きく捉えすぎて徒労に終わることがある。