宇宙対向の静電氣 | カタカムナの共鳴

カタカムナの共鳴

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「イキモノ」 と 「モチモノ」 の間

 電氣は必ず陰と陽の一対が相対的に向き合う。+の電極には-の電極が向き合う。原子の周りの電子雲は原子核内の素粒子(陽子と呼ばれる)と向き合う。ある電氣を帯びたものの周りには必ず反対の電氣を帯びたものが在る。すぐ近くにない場合は無限に遠い場所(一般には宇宙と呼ばれる)に在る。

 

 人間をはじめ動植物の體内の電氣は波のように伝わる性質がある。その波と向き合う電氣は無限に遠い位置にある勢力に基づいて移り変わる電氣だと考えられる。そこで私は「宇宙」というものが一体どういうものかについて考察した。

 

 まず宇宙と一言で言っても、その姿を有限の世界と考えるのか無限に遠い世界と考えるのかで人々の間に違いが出る。なぜこのような認識の違いが生まれたのだろう? 時間と空間は自分の内側から外へ向かって伸びている感覚がある。多くの人の時間感覚は過去から未来へ一直線にどこまでも縦方向に伸びている。空間は自分を中心とした立体的な玉が無限に遠くまで張られている。この時間と空間の感覚からものが止まっているのか、動いているのかの状態を知る。すなわち時間が広がる中で同じ空間があると感じているなら「止まっている」と認識し、時間の広がりに従い空間も広がっているなら「動いている」と感じる。

 

 ところが止まっているのか動いているかの判断はものを視ることではじめて認識にのぼる。そして人間はこうしたものの性質を深く知ろうと欲し、学問が発展してきた。まずものを構成する最小限の粒が何かについて追求した。ごく小さな粒は際限なく拡大を続ければ実際には視えなくなることが分かった。ここで粒に対する観念をふたつに別けた。ひとつは無限に拡がる空間に密に粒が充填されているという観念である。ふたつめは視えない粒にものを構成する力が備わっている、もしくは粒そのものが力だという観念である。そこで細かい粒が密に充填されていることや粒が力であることを具体的に確かめようと思った。もしそれが出来ないのであれば「ある」という認識にならない。そして認識がなければ「無いもの」として扱う考え方が基本にある。無い世界は人間の認識の外に置かれており、多くの人にとって宇宙は有限であると認識された

 

 しかし一方では太陽、月、星などを実際に視て、天體は規則的な運行をしているという認識があった。いわゆる天動説(天が動いていることを知る)である。昔の日本人はここからふたつの観念を導き出した。ひとつは空間に密に充填されている粒は止まっている状態と動いている状態があること。もうひとつは動いているものと止まっているものが結びついてものが視えるという観念である。そして天體の内部には止まっているものと動いているものが無尽蔵に内蔵されているのではないかという観念を持つに至った。

 

 昔の日本人は空間に密に充填されている粒を「イサ」と呼んだ。「イサ」が止まっている状態を「イサナギ」、「イサ」が動いている状態を「イサナミ」と呼び別けた。そして、ふたつの「イサ」が結びついてものが視えることから、イサナミとイサナギのふた神が結婚して万物を生み出したとか、日本列島を生み出したという物語が派生して生まれた。いわば神話に託して想像上の観念を伝えているのである。また昔の中国人は空間に密に充填する粒を「氣」と表現し、静かな氣を陰氣、動いている氣を陽氣と言い分けた。

 ふたつの粒の性質が結び付いてものが視えるという観念は老子の語にも示されている。「万物負陰而抱陽沖氣以為和」と表現し、日本人の抱いたイサの観念と似ている。(バンブツ インヲオヒ シカシテ ヨウチュウノキヲイダキ モッテ ワヲナス)

 

 止まっているものと動いているものの間にある粒が「視えるもの」という観念を推し広げると、実際に視える世界は自然界であり、視えない世界は間界(マカイ)であるという考えは子どもから大人まで多くの人に支持されている。(楢崎皐月博士は天然界と言っているがマカイの方がメジャーである) 自然界では天體の運行が規則的になされ、春、夏、秋、冬の季節は巡るが、光や音も、間界の規則で保たれるのだという観念を持つに至る。

 

 このように物事を観念で追求すると、唯物論を唱える学者と対立する。すなわち有限の自然界に対して無限遠の自然界が向き合っている。宇宙の真理を探し求める学問はこれからも発展するだろう。