〔前回「石清水八幡宮(続)」より続く〕

 

 先日、石清水八幡宮駅から、京街道(東海道五十七次)を少し歩いてみました。

 

 

 上画像は、奥ノ町の「二宮忠八飛行器工作所跡」。

 

 現地に立つ案内板によれば、

 

 明治 33 年(1900 年)石油発動機があった精米所の当地を買取り、飛行器製作を開始。

 

 この付近の木津川には広い砂原があり、「飛行器」の完成時には、その砂浜での試験飛行を予定していたそうです。

 

 『毎日年鑑別冊、 昭和11年日本人名選』(大阪毎日新聞社、1935年)を見ると、

 

 二宮忠八 慶2、愛媛、本邦飛行界先覺者大阪製薬社長、京都府綴喜郡八幡町常磐二、八幡一四七

 

 二宮忠八は慶応二年、愛媛の生まれ。

 当時は、京都府綴喜郡八幡町在住でした。

 

 

 続けての画像は、「八幡宮」の常夜灯。

 

 

壬文政五年

 午十一月

 

文政五(1822)壬午の年、十一月の建立です。

 

 

 北ノ町のT字路には、上画像の道標。

 

 右 八まん宮山道 これより十六丁

 文政二年己卯二月吉日 

 

 さらに、京街道を歩いていくと、

 

 

 中ノ町に、「柳谷わたし場」という道標。

 
 左面に彫られている文字は、「山さき あた古 わたし場」でしょうか。
 
 井原西鶴『西鶴置土産』(1693年)*巻二の「愛宕颪の袖寒し」に、
 
 橋本のわたし越えて松の尾にかかり
 

と書かれているので、その頃には既に「橋本のわたし」は存在していた。

 

 近代に入り、尾山篤二郎の歌集『草籠」(紅玉堂書店、1925年)に、

 

 夜、橋本の渡しを渡り月を踏んで歸る。(略)渡場は大なる中洲をへだてて二川になりをれり。(略)

 

 橋本にわたす舟人よぶこゑの木魂はかへす寒さなりけり

 

 あるいは谷崎潤一郎の『蘆苅』**(1932年)に、

 

いやそれならばきこの町のはずれから向う岸の橋本へわたす渡船がござります、渡船とは申しましても川幅が広うござりましてまん中に大きながござりますので、こちらの岸から先ずその洲へわたし、そこからまた別の船に乗り移って向う岸へおわたりになるのですからそのあいだに川のけしきを御覧になってはとそうおしえてくれたのである。橋本には遊廓がござりまして渡し船はちょうどその遊廓のある岸辺に着きますので、

 

と書かれているので、真ん中に大きな中洲があった。その中洲を隔てて、二つの川の分かれていたため、また別の船に乗り移る必要があったということが分かります。

 

 いつ頃までこの渡しがあったのかは、分かりませんが、

 

 

淀川の左岸堤防を走る「府道13号」に出て、大阪京都府境の辺りから、対岸を見ると、山崎との間に大きな中洲が見えていました。

 

*『西鶴置土産』(岩波文庫、1937年)

 

**「吉野葛・蘆刈』(岩波文庫、1950年)