(前回「京街道〔東海道):枚方宿(前)東見附から」より続く)

 

 

  枚方市駅前の宗左の辻を右折し、西南西方向に進みます。

 

 

 現地に立つ案内板によれば、枚方宿は、東見附から西見附までの797間、

 

 

 また、秋里籬島『河内名所圖會』 (1801年)によれば、

 

 此驛 山城との堺  橋本の金橋より二里なり 其中小楠葉上嶋下嶋渚禁野等數村あり 中頃より京街道となり

 

 その京街道を歩いて行くと、

 

 

「嘉永七年甲寅年」に、「開運講」が奉納した「妙見宮」の常夜灯(石灯籠)。

 

 「妙見宮」とは、信仰圏と当時は神仏習合であったことを考慮すると、能勢の妙見山(日蓮宗)ということになるでしょうか。

 

 

 

 枚方宿の街道筋には今も、出格子や虫籠窓、卯建など、

 

 

当時の面影を伝える、古い町家が残ります。

 

 

 上画像は「枚方宿高札場跡(札の辻)」の石碑。

 

 

 続けては、「枚方宿地区の歴史的景観建造物位置図」

 

 

 先ほどの秋里籬島『河内名所圖會』(1801年)によれば、

 

 旅舎本陣 茶店多し

 

ということなのですが、

 

 

 上画像は「京街道 大坂街道 東海道枚方宿本陣跡」。

 

 

 現地に立つ案内板によれば、1870年に廃された後は、1888(明治21年)、茨田交野讃良郡役所が常念寺から移転してきたようです。

 

 

 枚方は、梶川弛一編『大阪府地理案内』(温故書院、1894年)に、

 

枚方町ハ、茨田郡ノ名邑ニシテ、京都街道筋ニ當レリ。大阪ヲ距ルコト、五里二十九町アリ。茨田、交野、讃良郡役所ヲ置くケリ。

 

と書かれるように、茨田郡の中心的存在。京街道筋に当り、郡役所も置かれていました。

 

 

 しかし、その枚方も元は『寺内町」。

 

 枚方市史編さん委員会『新版 楽しく学ぶ枚方の歴史』(2024年)p.32を見ると、

 

 現在の枚方市の中心部は、近世に宿場町、京・大坂間の中継港としてにぎわいましたが、寺内町から都市として発展しました。

 

 

 現地に立つ看板によれば、枚方寺内町は、現在の枚方上之町を中心とする台地上にあったが、

 

 江戸時代になると、淀川沿いに枚方宿が形成され、台地上にあった都市機能も、宿へと移ってきた

 

と考えられているようです。

 

 


 上画像は、「蓮如上人従弟岩見入道開基」との石碑の立つ、「松風山浄念寺」。

 

 河内名所圖會』(1801年)に、

 

 西本願寺御坊 枚方の町にあり 浄念寺といふ

 

と書かれているように、本願寺が東西に分裂後は「西御坊」と呼ばれていたようです。

 

 

 さて、浄念寺から京街道をさらに歩いていくと、国登録有形文化財の「旧木南家住宅主屋(きゅうきなみけじゅうたくおもや)」

 

 木造瓦葺、つし二階の大型町家で、天保三年(1832)の建築。

 

 

 主屋と表藏を含めると、(目測ですが)10間を超える広い間口で、京街道に南面しています。

 

 かつての枚方宿の繁栄を偲ばせる歴史的景観と、感じました。