(前回「大阪街道(東海道五十七次):伏見の街」より続く)

 

 伏見の街から、旧大阪街道(京街道、東海道五十七次)を、淀に向かいます。

 

 

 上画像は、伏見みなと公園に立つ「龍馬とお龍、愛の旅路」像」。

 

「坂本龍馬手帳摘要」*を見ると、慶應二年正月の記事に、

 

十七日神戸

十八日大坂

十九日伏見

廿日 二本松
廿二日 木圭小西三氏會
廿三日夜 伏二下ル二時過ル頃―――
廿四日朝 邸ニ入ル
卅日 夜京邸ニ入ル

 

とあり、彼が1月19日、伏見に入ったこと、そして、

 

二月小
廿九日夜 伏水邸ニ下リ乗船。
三月朔日 大坂

 

 2月29日の夜乗船し、3月1日大阪に下っていることがわかります。

 さらに、「三吉慎藏日記抄」*を見ると、慶應二年丙寅正月

十九日の項に、

 

 一同無事ニ伏見船宿寺田屋方ニ著ス

 

とあり、一同無事に伏見の船宿寺田屋に着いたのでしょうが、同月廿三日の夜、

 

夜半八ツ時頃ニ至リ坂本ノ妾二階下ヨリ走リ店口ヨリ捕縛吏入込ムト告グ直ニ用意ノ短銃ヲ坂本氏へ付シ拙者ハ手槍ヲ伏セ覺悟ス

 

 伏見奉行所の捕り方に襲撃され、短銃で反撃したものの負傷。

 

 坂本氏ハ追々快方ニテ本月廿九日迄伏見藩邸ニ滞在ス

 

 坂本龍馬は伏見の薩摩藩邸で2月29日迄滞在し、おそらくは療養。

 

 二月廿九日夜京師出立ニ付坂本兩人妾トモ同船ニテ拙者ハ馬關ヘ坂本ハ薩摩ヘ同行ストノ事ナリ(略)三月朔日大坂藏屋敷へ着シ四日朝川船ニテ下リ

 

同日夜、船にてお龍さんもともに出立し、3月1日、大坂の藏屋敷に着いています。

 


 さて、彼らは川船で大坂に下っているのですが、現在、伏見と大阪を結ぶのは、京阪電車か、あるいは国道一号線。

 

 

 上画像は、国道一号線の宇治川大橋。

 

 

 続けては、同じ場所から見た宇治川の下流方向です。

 

 街道歩きが趣味の私は、疾走する京阪電車を見ながら、宇治川沿いの京街道(大阪街道)を、次の淀宿に向かいます。

 

 

 上画像の石碑は、「戊辰役東軍戦死者埋骨地」(京都市伏見区納所下野)。

 

 このあたりの宇治川堤は戊辰戦争初期、鳥羽伏見の戦いの激戦地でした。

 

 当時の淀藩主は、老中の稲葉正邦で、池上町・下津町・新町が「城内三町」という淀城下。 

 

 

「淀駅」(京都市伏見区淀池上町)で、京阪電車のガード下をくぐり、

 

 

 1925年に開場した京都競馬場の入口を左手(東)に見て、

 

 

池上町から下津町、新町へと大坂街道を歩いていくのですが、この城内三町がかつての「淀宿」。

 

 「温恭院殿御實紀」**の安政元年正月廿三日に、

 

 一 東海道伏見宿外三ヶ宿困窮に付。人馬賃錢割増、左之通可請取旨申渡 東海道伏見宿 淀宿、枚方宿 守口宿

 

とあるので、第13代徳川家定の時代の話にはなりますが、江戸幕府が伏見宿・淀宿・枚方宿・守口宿を、東海道の宿と捉えていた。

 

 いわゆる「東海道五十七次」ということになるでしょうか。

 

 

 上画像は、その東海道筋から「淀水路」を見たもの。

 

 江戸時代には宇治川の分水であり、淀城の南のお堀という意味合いもあったようです。

 

*岩崎英重編『坂本龍馬關係文書 第二』(日本史籍協会、1926年)

 

**『續徳川実紀』第三篇(経済雑誌社、1906年)