(「御香宮へ」より続く)

 

 先日、伏見から石清水八幡宮までの大坂街道(京街道、東海道五十七次)を歩いてみました。

 

 

 

 この日もスタートはJR桃山駅。

 

 

まずは、御香宮神社の門前から、大手筋を西へ歩きます。

 

 

 近鉄のガードをくぐり、京阪の踏切を渡り、大手筋商店街アーケードの3番街と4番街の境の角(大手筋整骨院の角)を左折し、次のコインパーキングの角を右折、

 

 

油掛通を西進すると、

 

 

 

「我国に於ける電気鉄道事業発祥の地」の石碑がありました。

 

 山本顕蔵編『京都誌要』(清水正文堂、1896年)によれば、

 

 京都電氣鐵道は、我が國最初の電氣鐵道にして、市内を通じて、南伏見に到れり。交通、最便なり。

 

 また、『京伏合併記念伏見市誌』(京伏合併記念會、1935年)によれば、

 

 京都市營電鐵伏見線は、京都驛前より分岐し、中書島停留所に至り、京阪電鐵に連絡するものと、勧進橋より稲荷に至る二線あり。棒鼻、丹波橋、肥後町、大手筋、京橋、中書島の六停留所を置く。

 

 

 上図は同市誌より「伏見市全圖(部分)」。

 

 細かくて見にくいのですが、東に省線(現JR奈良線)の「桃山驛」、次いで奈良電氣鐵道(現近鉄京都線)の「伏見」、京阪電氣鐵道の「伏見」「中書島」、そして、京都市電の「肥後町」「大手」「京橋」「中書島」の停留所が描かれています。

 

 かつての中書島は、南を宇治川本流、北を宇治川支流(派川)にはさまれた、中州(島)でした。

 

 

 上画像は、現在の京橋から、宇治川支流(派川)の上流方向を見たもの。

 

 

 続けては、京都府伏見町編『御大礼記念京都府伏見町誌』(伏見町、1929年)の挿入寫眞「京橋」。

 

 京橋 大阪其他各川筋よりの出入船の輻輳旅客の往還貨物の運輸中心地として賑ひたる所なり

 

 伏見は河港であり、京都の外港として栄えた町で、秋里籬島『都名所圖會』(1780年)巻五に、

 

 伏見 いにしへは朧々たる野径にして、ところどころに民村あり。秀吉公御在城より、大名屋鋪、諸職工人、賈人、軒端をつらね、町小路に市をなし、都や貨物を通じて交易をなしけり。

 

と書かれるように、大名屋鋪や商家が軒を連ねていました。

 

 

 上画像は、京都市伏見土木みどり事務所の壁沿いに建つ「伏見長州藩邸跡」の石碑。

 

 

 次の画像は、橋脚の親柱に「宇治川派流」と書かれる、「肥後橋」から上流方向を見たもの。

 

 京都府伏見町『御大礼記念京都府伏見町誌』(伏見町、1929年)によれば、

 

 肥後橋 現在の疎水水路にして宇治川支流に接す、𦾔伏見城の外壕にして、堀河と稱す

 

 

 それに対して、こちらは下流方向。奥に見える橋脚は、京阪本線です。

 

 現在の伏見と京都をつなぐのは、JR奈良線や近鉄京都線、京阪本線、あるいは国道一号線や京阪道路ということになるのでしょうが、かつては高瀬舟。

 

 脇田修・脇田晴子『物語 京都の歴史ー花の都の二千年ー』

(中公新書、2008年)によれば、鴨川は急流のため舟が使えず、鳥羽に車借という運送業者がいて、京都までは陸路だった。

 

 この状況を打開するために、慶長十六年に起工し、十九年に完成したのが、了以の高瀬川である。

 

ということで、角倉了以が私財を投じ、伏見から二条まで、幅約7.2m(約四間)の「高瀬川」を開削、さらに伏見から宇治川への水路をつけた。

 

 ただし、森鷗外の名作『高瀬舟』の冒頭の一節に、

 

 高瀬舟は京都の高瀬川上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞いをすることを許された。それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪へ回されることであった。

 

と書かれるように、罪人を護送する舟でもあったようです。

 

 

 上画像は、三栖橋から、現在の東高瀬川の上流方向を見たもの。

 

 京都府伏見町編『御大礼記念京都府伏見町誌』(伏見町、1929年)によれば、

 

高瀬川 現在は殆ど廢川となる。角倉了以開鑿してより京伏の運輸に貢献すること三百餘年、昔時川口に番所ありて高瀬船を管したりき

 

 当時既に高瀬川は、ほとんど廢川だったようです。

 

 

 続けては、京阪電鉄の東高瀬川橋梁。

 

 上半が京阪グリーン、下半がアーバン・ホワイトの一般車が走り抜けていきました。

 

*森鷗外『山椒大夫・高瀬舟」(岩波文庫、1967年改版)