(前回「三十三間堂」より続く)
三十三間堂より、大和大路を北に進み、豊国神社に向かいました。
豊国神社の所在地は、京都市東山区大和大路正面茶屋町で、祭神は豊臣秀吉。
浅井了意の仮名草子『東海道名所記』六*を見ると、
又、後白川院。重ねて千手千躰をつくり給ふ、蓮花王院と号せらる
東のかたに、豊国大明神あり。太閤豊臣秀吉公の庿なり。
今でも、蓮花王院(三十三間堂)から大和大路を北に進むと、東に豊国神社が見えてくるのですが、
そのかみ、さしも奇麗に、つくりみがゝれたりけるも。時世うつりぬれば、荒廃し。臂を張ける神主も。ちりぢりにうせさりて。楼門鳥井も壊れたをる。社頭のミ、わづかに残り。
時世がうつり、浅井了意の頃には、荒廃していたようです。
豊國神社社務所『府社豊國神社社記』(1929年)の「府社豊國神社年表」に、
京都府下別格官幣社豊国神社正遷宮アリ
と書かれているように、1880年9月15日、方広寺大仏殿跡地に社殿を造営し、再興されました。
上画像は、2019年、唐門前に修復・安置された「豊臣秀吉公像」**。
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟」にちなんで、今年は(私も含め)例年以上に多くの方が参拝に訪れているでしょうか。
なお、後方に見える「唐門」(国宝)は、伏見城の遺構とされ、
豊国神社再建に際し、南禅寺の塔頭金地院から移築されたもの。
そして、唐門をくぐると、正面に拝殿と本殿(奥)。
慶長の昔を思ふ心もて青葉曇りのなかを來にけり
青葉の季節、豊国神社に参拝した歌人吉井勇の短歌ですが、
豊国の社の午の深うして大き鳥居の影のしづけさ
彼は、豊臣秀吉に親しみを感じていて、
唐冠をかむり袍着し繪姿を見て太閤にこころ親しむ
をさなき日太閤記読み親しみしその人の名のなつかしきかな
幼き日に『太閤記』を読み親しみ、秀吉の名は「なつかしきかな」だったようです。
ところで、その豊国神社の現在の社地のほとんどは、かつての「方広寺大佛殿」の境内。
豊国神社から、大和大路を北に歩くと、「大佛殿石垣」との石碑がありました。
上画像は、秋里籬島『都名所圖會』(1780年)の挿圖「大佛殿」。
方広寺の大佛殿は1603年に焼失後、1612年に再建。
しかし、1798年、仁王門とともに再度焼失。
1843年再建されたものの、安政二年(1855年)の清河八郎の紀行文『西遊草』の巻八によれば、
其後秀頼再建せしに、また焼失せしかば、其後建立もあらず。今にいたり其あと顕然して石垣、石だたみなど中々南都の及ぶ所にあらず。瓦の残り、四方の鏡などいまだ少々存せり。先年いたりし時、尾州より木像の大仏半身建立、開扉などせしに、いまだそのままにて、余程落剥せり。思ふに貪婪の為に作りしものと見へ、実は建立の意にあらず。
と言う状況だったようで、これも1973年焼失しました。
門前に耳塚といふあり。(略)憐れむべき也。
「方広寺大仏殿跡及び石塁・石塔」として、門前の耳塚も、国の史跡に指定されているのですが、
2017年5月13日付のこのブログ「耳塚」で一度取り上げたことがあり、かつ「憐れむべき也」と私も感じたので、今回は割愛。
大仏の南に大鐘あり。いわゆる豊臣秀頼建立の時、鋳造せしものならん。
今日最後は、方広寺の大鐘の画像をご覧下さい。
然らば此鐘、いろいろの事の子細有事、古記に委し、天下に名高き大鐘にて、よく人の知る所なり。
「国家安康」「君臣豊楽」との銘文が、大坂の陣の契機となった「方広寺鐘銘事件」****で名高い大鐘です。
*浅井了意『東海道名所記2』(平凡社東洋文庫、1979年)。
**同神社のアカウント(@toyokunishrine)の2019年4月30日付ツィートX(旧twitter)
***吉井勇『京洛史蹟歌』(大雅堂、1944年)
****国立公文書館のウェブページ「方広寺鐘銘事件」









