上画像は、門前から六波羅蜜寺の本堂を撮影したもの。

 

 同寺は、『扶桑略記』*第廿六の康保四年条に、

 

 同代。京洛有僧。其名空也。(略)口常唱彌弥陀佛。故世號阿彌陀聖。或住市中。作佛事。又號市聖。(略)上人來後自唱令他唱之。爾後擧世念佛為事。誠是上人化度衆生之力也。鴨河東岸上六波羅蜜寺。是遺跡也

 

と書かれているように、「阿弥陀聖」「市聖」とも呼ばれ、「念仏」を衆生に化度した、空也上人の「遺跡」です。 

 

 同寺でいただいたパンフレットを見ると、

 

 六波羅蜜寺は、空也上人開創の西光寺を前身とし、

 

と書かれているですが「西光」とは、浄土三部経の一つ「仏説阿弥陀経」**に、

 

これより西方、十万億の仏ぎて、界あり、名づけて極樂という。そのに仏ありて、阿弥陀と号す。(略)かの仏をがゆえに、阿弥陀と号する。舎利弗よ、かの仏、光明にして、十方の国をすにするところなし。このゆえに、号して阿弥陀とす。

 

と書かれる、西方の極楽に有る「光明無量」の「阿弥陀」仏を連想させ、

 

 また、「六波羅蜜」という現在の寺号は、

 

 

やはり、浄土三部経の一つとされる『佛説無量寿経』***に、

 

国を棄て、王(位)を捐て、財と色とを絶ち去りて、みずから六波羅蜜を行じ、人にも教えて行ぜしむ。

 

と書かれる、「行じ、人にも教えて行ぜしむ」徳目のこと。 

 

 寛弘年間の成立とされる『拾遺和歌集』****を見ると、

 

 市門にかきつけて侍りける

一たびも南無阿彌陀佛といふ人の蓮の上にのぼらぬはなし

 

という「空也上人」の歌がありますから、「南無阿弥陀仏」と自らも唱え、人にも教えて唱えしめた人物だったでしょうか。

 

 

 

 ところで上画像は、同寺の境内で見つけた石標*****。

 

 慈円『愚管抄』******巻五に、

 

 清盛朝臣コトナクイリテ。六波羅ノ家ニ有ケルトトカク議定シテ。六波羅へ行幸ヲナサント議シカタメタリケリ。(略)十二月廿五日乙亥丑ノ時ニ。六波羅ヘ行幸ヲナシテケリ。

 

と書かれているように「六波羅」は清盛朝臣の家「六波羅第」があり、平家の滅亡後は、鎌倉幕府の「六波羅探題」も置かれたところ。

 

 兵火に遭うこともあったのでしょうが、その度に再興され、

 

 

 現在の本堂は1363年の修営で、国重要文化財。

 

 西国三十三所の第17番靈場であり、この日も多くの参詣者で賑わっていました。

 

*『國史大系』第六巻(経済雑誌社、1897年)

 

**『浄土三部経(下)観無量寿経・阿弥陀経』(岩波文庫、1990年改訳)

 

***『浄土三部経(上)無量寿経』(岩波文庫、1990年改訳)

 

****『拾遺和歌集』(岩波文庫、1938年)

 

*****京都市歴史資料館「フィールド・ミュージアム京都」の「平氏六波羅第・六波羅探題府址」によれば、1915年京都市教育會が建立した石標で、2011年に六波羅蜜寺境内の現在地

に移されたようです。

 

******『愚管抄』(岩波文庫、1949年)