(前回「熊野古道:荷坂峠から紀伊長島へ」より続く)

 

 

 先日、JR紀勢本線紀伊長島駅で下車し、

 

 

熊野古道を船津駅まで歩いてみました。

 

 

 紀伊長島駅は、1930年4月29日の開業、当時の所在地は、三重縣北牟婁郡二郷村です*。

 

 曉鐘成『西国三十三所名所圖會』(1853年)を見ると、

 

 二郷渡 二郷村にあり舟わたしなり 是を渡れ向ふ長島の浦なり 

 

 かつては舟渡しでしたが、

 

 

 

現在は三重県道766号線の長島橋を渡ると、長島の町。

 

 1950年、北牟婁郡長島町は二郷村を編入、1970年紀伊長島町と改称しました。 

 

 此長島の浦里ハ入海の船着にして(略)海濱なれば漁師の家多く

 

と同図会に書かれるように、長島は船着場であり漁師町。

 

 例えば、明治時代の田山花袋の紀行文集『南船北馬』(博文館、1899年)の「北紀伊の海岸」を見ると、

 

 帆檣のいくつとなく林立したる人家百軒ばかりなる風情に富める長島の街へと着きぬ。

 

 当時の長島は帆櫓の林立する風情に富んだ街。

 

明朝新宮に至るべき汽船の此處に立ち寄るものあるを幸ひに、われは舟路を取る事に心を定め、

 

 長島から汽船で舟路、新宮に向かいました。

 

 一方、名探偵明智小五郎が登場する江戸川乱歩の『大金塊』(1939~40年)**では、

 

そのあくる日の昼ごろには、三重県の南のはしの長島町についていました。それは海岸の漁師町でした。町じゅうに、磯くさいにおいがただよって、近くの海岸から、ドドンドドンという波の音が聞こえていました。

 

 当時の長島は、町中に磯の香りが漂って、波の音が聞こえるような漁師町でした。

 

 

 ところで、長島橋の南詰には、上画像の道標。

 

 「右 伊勢」

 

 

「左 熊野」。

 

 道なりに、左手に折れていくと、

 

 

「魚まち」に入ります。

 

 

 上画像は「魚まちのたまり場」。

 

 大正時代に公衆浴場として建てられ、その後、大衆食堂に改装されたという古民家で、現在は「まちかど博物館」。

 

 

大漁旗や漁具が展示されていました。

 

 

 続けては「長島神社」。

 

 社叢が県天然記念物で、特に正面の楠は樹高40mという大木です。

 

 さて、いったん国道42号線に出て、加田から山間に入ったところで、

 

 

 

右手の側道に入ります。

 

 

 

 JR紀勢本線の踏切を渡ると、

 

 

お地蔵様が鎮座し、ここから山道。

 

 

 曉鐘成『西国三十三名所圖會』(1853年)によれば、

 

 一石峠 古里坂ともいふ長島より古里にいたる間なり行程凡廿六丁余

 

 

 行程およそ二十六丁余りという小さな峠なのですが、

 

 

少し下っていくと、左手に海野の浦が見えました。

 

『紀伊續風土記 第三輯』巻之九十二牟婁郡第二十四の「海野浦」に、

 

 海野浦 迦伊乃 小名古里

 

とあるように、海野浦の小名が古里。

 

 道瀬浦の卯辰の方三十三町にあり往還よりは八町海邊にあり戌の方村界道瀬坂の峠まで廿八町此中間に小名古里あり往還にて家居本村に優れり

 

 

 平方峠で、海野から来た舗装道路に出て、往還(熊野街道)を古里の集落へ向かいました。(次回に続く)

 

*『官報』1930年4月23日

**江戸川乱歩推理文庫 第43巻』(講談社、1988年)