(前回「中山道:醒井宿から柏原へ」より続く)

 

 

 西見付跡から、旧中山道柏原宿に入っていきます。

 

 

 上画像は、柏原一里塚跡。

 

 坂田郡『坂田郡志 中』(1913年)によれば、

 

 かゝる名高き街道名物も、明治以後多く開拓せられて、現存するもの今僅に柏原の南に一個有るに過ぎず。

 

ということなのですが、

 

 

現地に立つ案内板によれば、その柏原の南塚も、河川工事により河床とされ、その西に復元されたもの。

 

 かつては塚上に榎が植えられていたようです。

 

 

 さて、大田南畝『壬戌紀行』(1802年)*が、


 松並をへ一里塚をこえて柏原の驛につく

 

と書いているように、一里塚をこえると、柏原の駅で、

 

 

上画像は、旧郷宿。

 

 

柏原御茶屋御殿跡。

 

 

 大田南畝『壬戌紀行』(1802年)によれば、

 

 驛舎のさまにぎはし

 

 往時を偲ばせる遺構がよく残されている宿場町で、

 

 

上画像は享保二年の道標「従是明星山薬師寺」「やくし江乃道」、

 

 

旧柏原銀行本店。

 

 

 

西今川の家。

 

 

日枝神社。

 

 

柏原宿歴史館は、旧松浦氏邸で、

 

 

国登録有形文化財です。

 

 

 続けては、旧造り酒屋。

 酒造に使用したという「粕桶」が展示されていました。

 

 

 「伊吹堂」の看板が挙がる「亀屋左京」。

 

 「伊吹艾本家 亀屋左京」は、創業寛文元年(1661年)、建物も文化12年(1815)建築という老舗。

 

 白洲正子『近江山河抄』(講談社文芸文庫、1994年)が

「伊吹の荒ぶる神」の中で、

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山麓の柏原には、「伊吹堂」という古い看板をかけたもぐさ屋があり、どっしりとした旧家の構えに、往年の宿場の名残を止めている。

 

と書いているように、どっしりとした旧家の構えです。

 

 ところで、大田南畝「壬戌紀行」(1802年)*に、

 

 伊吹艾をひさぐもの多し

 

 秋里籬島『木曽路名所圖會』(1805年)にも、

 

 名産には伊吹艾の店多し

 

ということなので、かつては「伊吹艾」の店が多くあったのでしょうが、『坂田郡志 中』(坂田郡、1913年)によれば、

 

 明治維新後街道の人影絶へ、業を停めしもの多く、今は唯龜屋左京一軒を存せり

 

今はただ亀屋左京一軒が存するのみ、という状況のようです。

 

 

 さて、中山道を東に歩いて行くと、市場橋の東詰に、常夜灯と「高札場(札の辻)跡」。

 

 

さらにその東には「柏原宿本陣跡」。 

 

 大田南畝は『壬戌紀行』(1802年)で、

 

 わがやどれる方は本陣にして、何某辰右衛門といふ

 

 また『坂田郡志 中』(坂田郡、1913年)によれば、皇女和宮は、文久元(1861)年の十月、

 

 二十一日内親王は本郡柏原の本陣(南部破竹)に宿泊せられ、

 

 第14代将軍徳川家茂も、慶応元(1865)年の上洛の際、

 

 五月二十二日柏原に宿泊せり

 

 続けて『坂田郡志 下』(坂田郡、1913年)によれば、

 

 柏原村南部破竹の邸に御中餐を召させられ、

 

 明治天皇も行幸の折、ここで昼食をとっているのですが、

 

 長濱の吉川邸と柏原の南部邸とは、現存せざる

 

1913年の『坂田郡志』発刊当時、既にその歴史ある南部邸は、現存しなかったようです。

 

 *『蜀山人全集』(吉川弘文館、1907年)