(前回「中山道醒井宿」より続く)

 

 

 醒井宿を出て、次の柏原宿に向かいます。 

 

 

 秋里籬島『木曽路名所圖會』(1805年)によれば、

 

 柏原まで一里半

 

の道のりです。

 

 

 国道に出ると、石碑「中山道 一里塚の跡」。

 

 坂田郡『坂田郡志 中』(1913年)に、

 

 本郡一里塚の所在は(一)中仙道には柏原村大字柏原の西町(二)醒ヶ井村大字一色(三)息郷村大字三吉(四)磨針嶺中(五)鳥居本村大字原にして

 

と書かれているので、醒ヶ井村大字一色の一里塚跡ということになるでしょうか。 

 

 

 側道に入ると、「米原市梓区 中山道松並木 柏原学区史跡保存会」の看板。

 

 坂田郡『坂田郡志 中』(1913年)によれば、

 

柏原宿萬留帳に正徳四年二月、醒ヶ井、本郷、柏原、長久寺地内の街道に、高五六尺、回り五六寸の松一千六百一本を植へしめられ、又寳暦七年五月の帳に柏原の町東に246本、町東に300本の松を増植せし事を記るせり。

 

 多くの松が植樹されたようですが、 

 

 

現在の「街道並び松(古木)」は、

 

 

ここより梓に12本、柏原宿に6本という状況のようです。

 

 

 さて、中山道を柏原宿に向かって、歩いていくと、

 

 

「歴史街道 柏原宿枝郷 長沢」の石碑。

 

 秋里籬島『木曽路名所圖會』(1805年)に、

 

 長澤村を過ぎて、

 

と書かれているように、長澤を過ぎると、

 

 

「街道並び松」という石碑と、案内板「掃除丁場と並び松」がありました。

 

 柏原宿では、松並木のことを「並び松」と呼んでいたようです。

 

 

 旧中山道をさらに歩いていくと、 

 

 

 「鶯が原」の案内板。

 

 秋里籬島『木曽路名所圖會』(1805年)によれば、

 

 長澤村を過ぎて、鶯が原に到り、柏原の宿に着く。

 

なので、柏原宿が近づいてきたのであり、

 

 

何本ということになるのか、残された松並木(並び松)を見ながら歩いていくと、

 

 

「西見付跡」の案内板がありました。

 

 「西見付」は柏原宿の西の入り口。

 

 柏原宿はここから東見付まで十三町(1.4キロ)という長い町並みだったようです。

           (次回「中山道:柏宿宿」に続く)