昭和20年8月9日の太陽が、いつもの通り平凡に金毘羅山から顔を出し、美しい浦上は、その最後の朝を迎えたのだった。

 

 永井隆『長崎の鐘』(1949年)*の冒頭の一節です。

 

 

 上図は、1953年応急修正・1954年発行の五万分一地形図「長崎」。

 

 金毘羅山の西麓に、浦上の町が広がっています。

 

 長崎医科大学は今日も八時からきちんと講義を始めた。国民義勇軍の命令の、かつ戦いかつ学ぶという方針のもとに、どの学級も研究室も病舎も、それぞれ専門の任務をもった医療救護隊に改編され、防空服に身を固め、救護材料を腰につけた職員、学徒が、講義に、研究に、治療に従事しているのだった。

 

 上図を見ると、金毘羅山の西麓に「長崎大(医)」と注記がありますが、これが当時の長崎医科大学。

 

 国民義勇隊の命令により、夏休み中であるにもかかわらず、その日も講義が始まっていたようです。

 

 8月9日午前11時2分、浦上の中心松山町の上空550米の一点に一発のプルトニウム原子爆弾は爆裂し、 

 

 長崎医科大学は、爆心地に近かったがために、大きな被害を受けることになりました。

 

 大学は爆弾破裂点から三百米ないし七百米の範囲に建物を並べていた。まず爆心圏内にあるとみてよい。基礎医学教室は爆弾にも近かったし、木造だったから瞬間に押し潰され、吹き飛ばされ、燃やされて、教授も学生もみな死んだ。臨床医学教室の方は少し遠かったのとコンクリート建だったために、運よく生き残った者もいくらかはいた。

 

 長崎大学のウェブサイトで「沿革」を見ると、長崎医科大学の犠牲者は897名。

 

 2015年公開の山田洋次監督の映画「母と暮せば」で、二宮和也

さんが演じた「福原浩二」も、被爆死した長崎医大の学生、という設定でした。

 8月10日の太陽はいつものように平凡に金毘羅山から顔を出したが、その光を迎えたのは美しい浦上ではなくて灰の浦上であった。生ける町ではなく死の丘になった。

 

 このように、、医大のある浦上の町が「灰の浦上」「死の丘」になったのに対し、上図の南東、片淵町に立地する「長崎大(経)」(当時:長崎経済専門学校)は損壊を免れ、前身校である長崎高商以来の建物3件が国の登録有形文化財。

 

 これは、金毘羅山及び南に伸びる尾根による地形遮蔽ということになるようで、近隣の寺町の崇福寺は国宝、南山手町の大浦天主堂やグラバー邸は世界文化遺産です。

 

                                (次回に続く)

 

*日本ブックエース(2010年)