「地図を見ながら」、今年の二枚目の地図は、1953年応急修正・1954年発行の五万分一地形図「長崎」。

 

 今年の秋は、浦上天主堂や興福寺・崇福寺に行けたらと思っています。

 

 

 当時の地形図はまだ右書きで、「みからう」と書かれているのは,

長崎本線の「うらかみ(浦上)」駅。

 

 『官報』第6531号(1905年4月12日)に

 

 長崎停車場ヲ浦上停車場ト改稱シ大黒町ニ設置セル停車場ヲ長崎停車場と稱スル旨同會社ヨリ届出タリ

 

とありますから、開業当時はここが「長崎停車場」でした。

 

 また、九州鐡道株式会社『九州鐡道案内』(1905年)に、

 

 今や多年の築港工事も完成を告げ我社亦線路を進めて大黒町に「長崎驛」を新設し、舊來の長崎停車場を「浦上驛」と改め、海陸相俟つて、一層運輸の便を謀れり

 

とありますから、築港工事の完成に伴い路線を延長、「長崎驛」を新設したということになるようです。

 

 さて、その長崎駅か浦上駅で、長崎電気軌道に乗り換えたら、原爆資料館停留場へ。 

 

 浦上天主堂のホームページで「道案内(地図)」を見ると、最寄り駅は「平和公園」電停のようですが、やはり原爆資料館には寄っていきたいような気がします。

 

 

 上画像は、長崎市役所『長崎市史. 地誌編 神社教會部 下』(1929年)より、「浦上天主堂」

 

 同書によれば、1925年の完成で357坪、信徒約7000名という大教会でした。 

 

 昭和20年8月9日の太陽が、いつもの通り平凡に金毘羅山から顔を出し、美しい浦上は、その最後の朝を迎えたのだった。

 

 永井隆博士の『長崎の鐘』(1949年)の冒頭の一節なのですが、

 

東洋一の天主堂では、白いベールをかむった信者の群が、人の世の罪を懺悔していた。

 

その日も多くの方が礼拝に訪れていたようです。

 

                              (次回に続く)

 

*長崎電気軌道株式会社公式WEBサイトよりお知らせ「8月1日から電停名称が変わりました」。