(前回より続く)

 

 1938年夏、田部重治は、「兼好法師庵跡」を訪れたのち、馬籠に向かいました。

 

 引用は前回に引き続き、田部重治「神坂峠と兼好法師庵跡」*です。

 

 しばらく休んでから出掛けると、間もなく右に馬籠へ行く道が分かれてゐる。馬籠はこゝから一里と云はれ日蔭のない道には日が遠慮なく照りつける、水氣のない干からびた山側をうねりうねり上り下りして行くと道はやがて中仙道に出た。右には昨秋通った馬籠があらはれる。

 


十曲峠から馬籠へ
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

上画像は、1931年修正測図の五万分一地形図「妻籠」。

 

 

 十曲峠から新茶屋、荒町と続くのが、旧中山道です。

 

 彼の記述から判断すると、荒町と馬籠の間の「中仙道」に出た、ということになるのだろうと思います。

 

 とっつきの左の家は、役場で、今日は何かあるらしく、人が集っている。道は可なり急斜面を行き丸石がごろ〱して歩きにくい。両側にたて並ぶ家は物さびて、古い宿場の面影には何となしに胸をうつものがある。

 

 

 地図でいうと、馬籠のとっつきのところに、地図記号「○」がありますが、これが役場。馬籠は当時、「神坂村」でした。

 

 集落内の道は、現在は整備されて歩くやすくなっていますが、かなりの急斜面であることは、当時と変わっていません。

 

 郵便局の手前二軒目のところを左に折れて、二三町行くと、石の階段がありそれを登り、鐘楼を右にして行くと、一つの禅寺がある。これぞ藤村の「夜明け前」に可なり大きな役割を演じてゐる永昌寺である。

 

 

 上図を見ると、郵便局から左手に「小徑」が伸びていますが、その先の地図記号「卍」が「永昌寺」です。藤村の『夜明け前』では「万福寺」。

 

 

 「半蔵は、村の万福寺の方から伝わってくる鐘の音で目をさました」とか「彼が家と万福寺との縁故も深い。最初にあの寺を建立して万福寺と名づけたのも青山の家の先祖だ」などと、『夜明け前』にも度々、登場します。

 

 

 歸りに島崎家の墓地に案内して貰った。それは寺の入り口にあって「夜明け前」の主人公青山半蔵こと島崎正樹は、明治十九年十一月二十九日歿となってゐる。それと少しく離れて島崎冬子、島崎みどり、孝子、縫子の墓が悲しさうに並んでゐる。

 

 

島崎藤村(春樹)の墓


 上画像は、その永昌寺の墓地。

 

 

 右前が島崎春樹(藤村)の墓石で、左隣は妻冬子。後列には次男鶏二、また長女みどり・次女孝子・三女縫子連名の墓が並んでいます。

 

 

 寺を辞してから、昨秋訪れた島崎楠雄さんの宅に立ち寄った。幸ひ在宅、日中の暑いさなか二三時間休ませて貰った

 

 

 島崎楠雄氏は、藤村の長男。帰農し、馬籠で暮らしていました。田部重治は昨年秋に続く来訪です。

 

 

 四時頃になってから中津川に向って出発すると、楠雄さんも途中まで行かうと云ふことで、一緒に出掛けた。(略)農村の話や街道の推移が生活に及ぼす影響などを語りあいながら行くと、いつ間にか十曲峠を過ぎ、落合についた。

 

 

 上図でいうと左下が十曲峠。彼らは、隣の宿場町落合まで、旧中山道を歩いていったようです。

 

 

 一緒に乗合を利用して中津川に向った。中津川の橋力と云ふ宿がいゝと云ふことで案内して貰ったが、最近に旅館営業をやめたと云ふことが分り次に十一屋に至り、そこで別れた。

 

 

 「橋力」は、「橋利喜」のことかもしれません。

 

 「十一屋」は、西太田町通りの入り口にあった、老舗旅館ですが、先年、惜しくも、取り壊しになったそうです。

 

 さて、次回は、先日、「中津川市中山道歴史資料館」と「間家大正の蔵」を見学してきたので、その時のことを書いてみたいと思います。  

 

 

 

*下平康惠編『信濃の旅』(旅と信濃社、1952年)