大井、中津川の諸驛を過ぎて、次第に木曾の翠微に近けるは、九月も早盡きんとして、秋風客衣に遍ねく、山聲路傍に喞々たるの頃なりき。

 

 季節外れにはなりますが、今日は、田山花袋「秋の岐蘇路」(1903年)*を読んでみたいと思います。 1898(明治31)年秋の旅ということになるそうです**。

 

 落合驛を過ぎて、路二つに岐る。一は新道にして木曽川の流に沿ひ、一は馬籠峠を踰えて妻籠に入る。われは其路の岐るゝ一角に立ちて、久しくその撰擇に苦しまざるを得ざりき。

 

落合村
 左は1931年修正測図の五万分一地形図「妻籠」。

 

 地図上の中央本線の中津~坂下間9.9kmが開業したのは1907(明治41)年。

 したがって、花袋は、歩いて「岐蘇路」を旅したということになります。

 
 また、南西(左下)から「與坂」を通って、東に伸びるのが、中山道。

 落合村でT字路になっています。

 

 左折し、北北西に進み、落合川を渡って、木曽川沿いに進むのが、花袋のいう「新道」、通称「賤母新道」です。

 開通したのは、1892(明治25)年だそうです。

 

 聞く、新道の木曽川に沿へるの邊、奇景百出、岩石の奇、奔淵の妙、旅客必ずこれを過ぎざるべからずと。況んや、其路坦々として砥の如く、復た舊道の如く嶮峻ならざるに於てをや。

 

 新道は景色もよく、道も平坦で、旧道のように険峻ではないと聞いたようです。したがって、多くの旅客は、新道を通ったということになるのだろうと思います。

 

 われは遂に舊道を取りつ。

 

 しかし、花袋は、選択に苦しんだ結果、新道ではなく、旧道を取ります。

 

 數歩にして既にその舊道のいかに嶮に、且いかに荒廢に歸したるかを知りぬ。昔の大路には荊棘深く茂りて、をりをり〳〵横れる小渓には渡るべき橋すら無し。否、崕は崩れ、路は陷りて、磊々たる岩石の多き、その歩み難きこと殆ど言語に絶す。

 

 花袋の紀行文の特徴は、「始終、昹嘆する癖がある」「浪漫派たる情趣に浸り切ると云った風がある」こと***'。

 多少割り引いて読んだ方がよいのかもしれませんが、新道が開通して6年、既に旧道は、荒廃し始めていたようです。

 

 馬籠は風情多き驛なり。

 今の世に旅するもの、國道の至る處に昔栄えて今衰へたる所謂古驛なるものゝ多きを見ん。


 馬籠に限らず、明治に入って衰えた、かつての宿駅というのは多くあったはず。しかし、その中で、馬籠は「風情多き驛」と花袋は感じたようです。

 

 馬籠は幸ひにして火災に遇ひぬ。火災に遇ひたるが為め、他の古驛に見るが如き醜く汚れたる光景とあはれに侘しき家屋とをとゞめすして止みぬ。

 

  馬籠観光協会のウェブページ「馬籠の歴史と文化 」によれば、1895年の火災で78棟が焼失しています。「幸ひにして火災に遇ひぬ」という表現は、どうかと思わないではありませんが、花袋の旅の3年前ということになります。

 

 見よ高原に新しき小さき家屋にいかに無限の秋風の吹流れるかを。

 

ということで、当時の馬籠は、小さな新築家屋が並ぶ光景だったようです。

 

 更に見よ、新道の開通せられてより、更に旅客の此地を過ぐるものなく、當午繁盛の驛路、今は一戸の旅舎をも留めずなりたるを。

 

 新道が開通してより、過ぎる旅客もいない、静かな宿場の様子が目に浮かびます。

 

 われはこの高原の上なる風情ある古驛の入口の石に腰を休めて、久しくなるまで四邊の風景に見入りつゝ、さま〲なる空想に耽りたるを今猶記憶す。いかに美しき空なりしよ。いかにさびしき秋の日の光なりしよ。

 

 他の木曾路の宿駅と違って、馬籠は高原の上。

 入口の石に腰を休めれば、秋晴れの空も美しく、記憶に残る風景だったようです。

 

(次回に続く)

 

 

*『明治文學全集 94 明治紀行文學集』(筑摩書房、1974年)

 

**福田清人「解題」、同上

 

***高須芳次郎「明治の紀行文」(1934年)、同上