今回の記事は、私が子供の頃の愛読書だった、知る人ぞ知る子供向け釣り雑誌"つりトップ"にまつわるお話。


先日、ひょんなキッカケから色々と思い出した事があったので、この記事を書いてみました。

またまたオサーンのつまらない昔話なのですが、それでも良いという付き合いの良い変◯さんだけ、この続きをどうぞ…










あれは1980年代がもうすぐ終わろうとしていた、私が中学生時代の事。


当時の私は中学校の、とある団体競技スポーツのクラブに入っていた。

そのクラブは、中学一年の半ばまでは放課後のみの活動で、顧問の優しいY先生は勝ち負けにもあまり拘らず、しかも日曜日はほぼ休みと、まるで遊び半分のような活動だった。しかしそれは生粋の根性無しである私にはむしろピッタリな感じであり、毎日楽しいクラブ生活を過ごしていた。


だが諸々の大人の事情により、クラブの顧問教師(指導者)が優しいY先生から熱血漢のT先生に変わってから、クラブの雰囲気が一変。楽しかったクラブはその日を境に、勝利のみを目指した超絶厳しいクラブへと変貌を遂げた。


毎日の練習は以前と比べると桁違いに厳しくなり、練習の合間には昭和の時代らしく、鬼顧問Tから頻繁に"愛のムチ"が飛んだ。

チーム内で一番体が小さくて、技術も下手ッピだった私は、当時チームメイトの誰よりも"愛のムチ"という名の行為をT先生に働いて頂いていた。

きっと今の時代じゃ大問題だが、私と似たような年代の読者様の中には、「あぁ、昔はそんな感じだったなぁ…。」と思われる人も居られるだろう。当時のゴリゴリ体育会系というのは、大体そんな感じだった。

(↓の記事にも当時の様子を少し書いているので、コチラもよかったらどうぞ…)






そして夏休みには、県内の有力校が数校集まって"地獄の合宿"が実施され、根性無しの私も強制的に参加することになった。

電車とタクシーを乗り継いだ先にある、遠方の山中にある合宿所へ送り込まれた我々は、自分達が今何処に居るのかすらわからない僻地ゆえに逃げ出すこともできず、朝から晩までひたすら練習と筋トレに励むことになった。


合宿所の生活では、早朝からの長距離ランニングに始まり、猛暑に加えてシゴキと罵声と愛のムチが多数飛び交う中で、夜までガッツリと練習漬け。途中の休憩などほとんど無く、大声もひたすら出さなければいけなかった。

そして当時の体育会系のお約束で、練習の合間には水をほとんど飲ませてもらえず、我々は隠れて交互に、汚いトイレの手洗い場の水を飲んで凌いだ。






練習が終わって道具の片付けを終えた後は、全員揃っての夕食タイム。

だが、この夕食タイムがまた苦痛だった。

いくら若いとはいえ、真夏にロクに水も飲ませてもらえずに、ヘロヘロになるまでシゴかれまくった我々には、もはや食欲すら無くなっていた。

だが「食事もトレーニングのうち。」と、馬鹿みたいに量が多いこの合宿所のメシを、全部残さず食い終わるまでは、食堂から席を立つ事は決して許されなかった。

(晩飯の一例で言うと、おかずはミックスフライ+キャベツ千切り山盛り+たっぷりポテサラ+付け合わせと呼ぶにはあまりにも量の多いスパゲッティ…みたいなメインの皿がいつも二枚あり、更に小鉢ものが二〜三種あり、白飯はどんぶりに大盛りで具沢山の味噌汁と、時にはミニうどんまでありと、たぶん私は今でも全部食べるのがかなり困難な程の超絶ボリューム。)


全部食いきれないからと、残った飯をこっそり残飯コーナーへ勝手に捨ててバレた者が居たが、彼は皆が見ている前で、指導者に食堂の床で引き摺り回されて、練習の時以上にボカスカと壮絶なる愛のムチを働いて頂いていた。それが怖くて、しかし腹一杯で苦しい…と、泣きながら食べている者も居た。

私の近くの席では、食事の途中で白飯のどんぶりにゲ◯を吐いてしまった者が居て、そしてその向かいの席に座っていた別の者がその様子を見て、もらいゲ◯をしてしまうという、あまりにも悲惨な光景も目の当たりにした。リバースそしてオートリバース。それはまるでゲ◯のピタゴラスイッチだった。

(この時の鮮明な記憶の為に、私は大人になった今でも、中華飯のビジュアルが苦手だったりする。いや失礼、中華飯が好きな方には大変申し訳ない…😓)


当時、体が一番小さい上に元々少食だった私は、いつも食べ終わるのはビリだった。毎日毎回「お前はそんなんだから、体が大きくならないんだ‼︎」と鬼顧問Tにガミガミ言われながら、苦しさを堪えて食べた。


そして晩飯をなんとか無理矢理詰め込んだ次は、夜の勉強時間だった。

広い講堂のような場所で、オエッとなる口を手で押さえながら、そこで夏休みの宿題をやった。

そして「毎日夜の九時に、自宅の親へ電話するように!」と決められていて、勉強の合間にチームメイトで順番に、それぞれの自宅へ電話をかけた。

それは鬼顧問Tの、我々の家族へのなけなしの配慮だった。






合宿所の廊下にあったピンクの公衆電話に10円玉を入れ、ピッポッパッと自宅に電話をかけると、いつも決まって母ちゃんが出た。

「今日も練習めちゃくちゃしんどかった…」

とピロテン少年(私)が言うと、

「うん。もうちょっとだから、頑張んなさい。」

と、母ちゃんは毎回言った。


母ちゃんの声の後ろからは、TVの音が微かに聞こえてきて、そのありふれた日常的な音から、電話口の向こう側に広がっている自宅の普段の空気感を感じ、私は早くこの地獄のような合宿を抜け出して家に帰りたくなった。

以前のように遊びたくて、釣りに行きたくて、なによりも辛くて仕方なかった。





合宿開始から数日経った、ある日の夜九時。

その日も私は、いつものように自宅へ電話を入れた。


私が相変わらず泣き言を言うと、母ちゃんがいつものセリフに続いて、

「そうそう、アンタ宛てになんか届いてたで。つりトップの雑誌社からや。」

と言った。


そして

「アンタの部屋に置いとくから、それを楽しみに、もうちょっとだけ頑張りや!」

と続けた。




それを聞いた私は、瞬時に理解した。

やった‼︎ 以前から応募ハガキを送っていた、私の愛読書"つりトップ"の懸賞に当たったんだ!と。




その事を励みにして、私はなんとか地獄の合宿を無事に最後まで終えて、自宅へと戻った。

合宿はたぶん一週間くらいの期間だったと思うが、当時の私にはひと月ほどにも感じられた。それほど過酷な体験だったが、毎日の電話での母ちゃんの声と、そして"合宿期間中につりトップ編集部からのプレゼント品が自宅へ届いた"という楽しみのおかげで、辛い合宿生活を乗り越える事ができた。









私は家に帰ってすぐに「当たった商品は一体何だろう?」とウキウキしながら2階の自分の部屋へ駆け上がった。












すると、自分の机の上に、封筒が置かれていた。













差出人の名は「つりトップ編集部」と書いてあったと思う。












私は大きな期待を胸に、開封した。













当たった懸賞品は、なんと…












ちゃちいボールペンとシールのセットだった。

残念…😓




だが、しょぼい商品とはいえ、雑誌の懸賞で初めて当たったので、凄く嬉しかったのを今も覚えている。


しかも、後によく考えたら、そもそも自分が「品物はなんでも良いから、とにかく当たりやすいように。」とセコい考えで、ロッドやリール等の高額商品を避けて、あえてしょぼい商品を希望して応募した事を、この時はすっかり忘れていた。

やはり、どこまでもオッペケペーなピロテン少年だった。








先輩達の代から元々強かった我が中学校だったが、この合宿を含めた猛練習の甲斐もあり、所属チームは我々の世代に交代してからも強さを維持していた。

地元市内では大会決勝常連の強豪チームであり、自分達の代では一度だけだが、市内の大会で優勝もした。

…まぁ私は半分補欠みたいなモンだったが(笑)



だがその後、中学三年生になって反抗期を迎えていたピロテン少年は、鬼顧問Tや両親や、ひいては世間に対して何かと反抗する意識が増え始めた。

そして中学時代最後の大会直前となった時に、クラブ生と鬼顧問Tの間で一悶着あり、キャプテンと副キャプテンの二名を除いた残りの部員皆で、鬼顧問T氏の机に退部届を叩きつけた。


その後、頭を冷やしたチームメイトが、一人また一人と退部を取りやめてクラブへと戻って行ったが、私ともう一人、チームの主要メンバーN君の二名だけは意地になり、クラブへは頑として戻らなかった。


中学の卒業アルバム撮影日の前日には、同期のキャプテンが教室へ来て、「明日の放課後、卒業アルバムに載せるクラブ生の集合写真を撮るから、お前もユニフォームを持って部室へ来いよ!鬼顧問Tがそう言ってたぞ‼︎」と言われたが、私はそれでも行かなかった。

「フン…お前は鬼顧問Tのクツでも舐めとけ。」その時の私はキャプテンに対して、腹の中でそう思っていた。


翌日のクラブ写真撮影当日、鬼顧問Tが校内放送で「部室に集まれ!」と、何度も何度も私とN君の名前を呼んでいたが、我々はそれをもガン無視して、その校内放送を聞きながら帰宅した。


その時は自分の考えこそが正しくて、これで良いとか、これが格好良いとか、そんな風に思っていた。

だが時が経つにつれて私も色々と考えるようになり、あれから30年以上経った今でも、私はこの時の事を思い出すと重苦しい気持ちになる。

あれは確実に、私の人生におけるターニングポイントだった。良い方にではなく、悪い方に。

そして反抗期は誰にでもあるとはいえ、いつも応援してくれていた母ちゃんにも、大変残念な思いをさせてしまった。

考えたら本当に今まで、色んな周りの人達に迷惑かけてきたよなぁ…。


別に"辞める"という事が全て"悪い事"だとは思わないが、「今までさんざん頑張ってきたのに、引退まで残り二ヶ月で最後の大会直前に、意地を張った勢いでそのまま強引に退部する」というこの前代未聞のおバカ事件は、色々と本当に無駄な意地を張ってしまったという自覚もあり、大人になった今も私の中で苦い思い出のひとつとして、くっきりと刻まれている。









さて、そんな青い時代の思い出と共にある雑誌つりトップだが、私はそれほど長く買い続けた訳では無い。おそらく購読していたのは、中学生の頃の二年間くらいだろうか。

しょぼい商品を狙った懸賞応募はその後も二度ほど当たり、バンダナやハリスを貰った記憶がある。良く言えば手堅い、だが昔から夢が無くてセコい考え方の私だった。


やがてピロテン少年の興味は、自身の成長と共につりトップよりもエ◯本へと移って行き、つりトップを読んでいる事自体が子供っぽく感じ始め、買うことをさっさとやめて、持っていた本も処分してしまった。




そして大人になった…いや、立派な中年になった今。

安く手に入る機会があれば、当時持っていたつりトップをちょこちょこと買い戻したりしている。

実はつい先日も、ビンテージアウトドアショップのイレクターズさんにつりトップが入荷された事を知り、店主さんにお願いして通販で数冊購入したばかりだ。






自宅に届けられた、今から30年以上前のつりトップ。


バス釣りだけでは無く、川のエサ釣りや海釣りの記事なども多数あり、懐かしみながら眺めていた。


そして、ふと懸賞の当選者発表のページを見ると、そこに自分の名前が載っているのを見つけた。


その瞬間から、中学生だった頃の記憶が鮮やかに思い出され、それが今回の記事を書くキッカケになったというわけである。


今週末の休みは、家族でどこかへ遊びに行くか、それともちょっくら釣りにでも…と思っていた私だが、久々に実家へ帰って、今まで心配ばかりかけて来た母ちゃんに、孫の顔を見せに行って来るとするよ。



おしまい。







また長々とくだらない事を書いてすまなかったね、エブリバディ達。今回の記事は、まぁこんなところだ。


最後まで読んでくれた方、どうもありがとう。

じゃ🖐️ おそまつ😙