私が旦那についた嘘 | ピロの屋本館@ロサンゼルス

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天使の女王の町Los Angelesでの生活記録


その時私は1つのダンボールを前に旦那と向き合って座っていた。





『My God... 終わったよ・・・ガクリ





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バカなのー



なんとも穏やかでない言葉ですが、これは私がよく旦那に浴びせる言葉で、まぁ一応それにはそれなりの理由というものもあります。

うちの旦那さまはですね、

葉っぱ空気が読めない葉っぱ状況判断できない葉っぱ運動神経が鈍い
葉っぱ洞察力がない葉っぱ動体視力かなり低い


なのですが、逆に言えば、
こんなだから穏やかで優しいのだとも考えられますかね。
だって、こんだけ周りが見えてもいないし、故に
影響もないから打撃も少ないわけです。


こんなでも一応立教大学経済学部卒なんですから
全く日本の大学制度もいい加減見直す時期でしょう。

ちなみのこの立教大学経済学部って、
サザエさんの登場人物、ノリスケさんの奥さまの
タイコさんと同じなんですよね(笑)。

しかし、このがり勉タイプの世間知らず旦那と、
頭を使うよりも身体で覚えるタイプの私が
くっついたわけですから人生不思議なものです。

話を戻しましょう。


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さて、
今日はまず前置きからなるべく短縮して綴っていきます。
それでも長いですからね f^_^;


久々の顔「けけけ」私ヒストリー顔「けけけ」です。
暗黒ヒストリーですよ、今日は。
真っ白い方はここまでで止める事をお勧めします



幼稚園時代

私はガラスのハートを持って生まれてきました。ちょっとした事で酷く傷つき、そのガラスのハートは一瞬で木端微塵。チビの頃のエピソードではこんな事がありました。当時4歳とかの私は元父親の会社の運動会で徒競走に強引に参加させられ、「よーい。ドン!」で皆と逆方向の親元へ「うえぇーーーーーーーん。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。!!」と大泣きして走って行った事は、最近やっと自分の中で処理できるようになってきました。勇気をくれたのは、以前日本へ帰った時にたまたま従弟の子供と”おかあさんといっしょ”を観ていた時、ある1人のチビが全国放送を前に鼻クソをほじっていたからである。私は従弟の子供に「あの子TVの前で鼻クソほじってる」と言ってあはは!と笑って見せたら、奴もマネしてあはは!と笑った。調子に乗った私は「ヤバイよねー、あれ!」と言って再びあはは!と笑ったら、奴もまた転げまわって笑った。小者な私は自分より無様な人間を見つけて安心した。まさに”目くそ鼻くそを笑う”である。


小学生時代

両親の離婚で母親に引き取られた時点から方向転換をはじめる。小学校2年で転向した私は地元で家がガソリンスタンドをやっていたお陰で、それなりに嫌な思いをさせられて育ちました。同級生の親たちからはこぞって、「あの子は片親だから付き合っちゃだめよ」とか、「商売やってると裕福でいいわね~」等々の嫌味続出。小学生の頃までは転校生というのもあってなんとな~く肩身の狭い思いをしていたけど、中学に入ってから運命の歯車が狂い始める。


ママのこと

うちのママはよくモテましたよね。その為男がいっぱい。私が小2の頃ママは30歳くらいで、3股かけて頑張ってました。当然男とのトラブルは後を絶たず。夜寝ていれば別室で男と怒鳴り合い・殴り合いの大喧嘩が聞こえてくるなんて日常チャメシ。翌朝起きてリビングへ行ってみれば、窓とTVには穴、サイドボードは引っくり返り、床中ガラスやグラスの破片だらけ。一度は喧嘩の最中に巻き添えくって窓ガラスの破片を浴びた事もありましたよね。かと思えば我々子供の前で真っ裸になって男といちゃいちゃはじめたり、時には喧嘩が行き過ぎてご近所から警察に通報され、、、みたいな完全なる反面教師でした。ガソリンスタンドの現場で働いている時はとっても格好いいんですけどね。夜は酒乱でしたよ。まだ年端も行かぬ少女だった私は、この昼と夜の親の顔の違いに戸惑った事は言うまでもありません。



中学生時代

私には元姉という人物が1人いたのですが、2つ上だったので私が入学した時にあちらは中3。私の学年の1番の不良少女の姉とうちの元姉が同じクラスになったらしく、それを機にその不良少女Aが私に接近してきた。それから2人で学校にアルコールを持ち込み、タバコを持ち込み、、、なんて悪さを始める。さらに、仲間も増えて我々はすっかり不良のレッテルを貼られた生徒となった。当然”片親”だの”教育されていない”だの言いたい放題保護者達から陰口を叩かれたのでありますが、すでに世の中に対して敵意を抱いて生きていたあの頃の私は、夢も目標もなかったけど怖い物もなかったので、自分に攻撃をしかけてくる人間には容赦なく喧嘩売ってました。そんな荒れに荒れた中学時代を過ごしました。



高校生時代

中学生の頃から軽犯罪を繰り返すようになった私はまぁよく警察にとっ捕まりました。その度ママにぶっ叩かれ家を追い出され、家出し、、、の繰り返し。挙句の果てには家裁から呼び出しを受け、鑑別所行きをギリギリ免れた始末。お陰で高校3年の1学期の時点で担任から「あと1日欠席したら卒業延期だぞ」と宣告を受けるはめに。しかし、ここでまた方向転換の機会が訪れるのです。16歳から続けていたIHOPでのバイト先で、良き大学生の先輩方に「あんたは根性がある」と仲良くして頂けるようになったこと。その人たちの影響で、いつまでもこうして突っ張っていても誰からも相手にされない、人間はいかに社会でやって行けるかが勝負なのであると思うようになり、取りあえず卒業後に進学をすることにしたのでありますが。。。



専門学生時代

「高校すらろくすっぽ行っていないのに何が専門学校よ!」とママから猛反対を受ける。しかしラッキーな事に、当時うちには香川県で長年女学校の先生をしていたひいばーちゃんがいた。「みゆきちゃん(←ママの名)、そんな事言わずに、やる気になったのだから行かせてあげなさいよ」と鶴の一声。そして授業料を半分払うという契約の元に入学許可がおりた。専門学校に入学した私は”ホテルトラベル学科”に入り勉強する予定ではあったものの、またまたここでも良い(悪い?)仲間に巡り合い、渋谷で楽しい2年間を過ごしただけでありました。そしてこの年、実家を出て一人暮らしを始めました。約束の授業料の方はIHOPで週5日、夏休みなどの長期休みにはトラックの運転手として朝7時から午後2時まで働き、夕方から夜までIHOPへ稼ぎに行くという感じで生活費と授業料を工面してました。



卒業後の転機

ここでまた転機が訪れる。バブル崩壊。専門学校卒業数ヶ月前、長年勤めたIHOPの体制が変わり、今までのように自由にスケジュールに入れなくなっただけでなく、ちょっとした嫌がらせで自給を下げられた。ま、この頃はやや更生していたとは言え所詮まだ18とか19の小娘。店長に食って掛かって「や~めよ!」と無断欠勤をする。一人暮らしで収入を失った私は、バイト探しをして都内でお金の良い飲み屋の面接に行ったら、なんとピンサロであった。当然風俗店なので最初の数日はとっても辛くて帰って来て泣いていたけれど、そこでも良い仲間たちに恵まれ先輩から「2週間我慢してごらん。慣れるから」と慰められた言葉を信じて頑張ったら本当に慣れたのであった。その頃IHOPから戻って来てくれと連絡があり、「やだね」と言ったら、うちの近所にオープンする新店でトレーナーとしてやや良い自給でバイトして欲しいと頼まれ引き受ける事にしたのである。



実家暮らし

まだ若かった私はIHOPとピンサロで楽にお金を稼いで遊びまくり学校へも通い、1年の一人暮らし&ティーン時代を満喫した。しかし、ママと離れた途端に仲良くなり、結局1年後に両方の仕事を辞め実家へ戻った。それから少ししてカラオケボックスで店長をしていた知人から仕事のオファーを受け働き始めたと同時に、Dress Blackというウエディングドレスの会社に就職したので、昼はドレス屋の正社員、夜はボックスのバイトとし、ママとも楽しく暮らしていたのです。順風満帆でした。ママの男?いましたよ、もちろん。その頃にはすでに1人に絞ってましたけどね。地元の田中電気という電気屋さんの代表で、私は”おっさん”と呼んでましたが、ママは何か気に入らない事があると「この田舎電池の社長が!」と暴言をよく吐いてましたよね^^;相変わらず男との喧嘩が多いママでしたが、私も少しは大人になっていたので、「まぁまぁ、おっさんも今日のところは家に帰って寝なよ。ママには明日話しておくからまた明日にでも出直しな」などと仲裁役まで余裕でこなせるようになっていた。翌日おっさんはママが帰って来る前からママ好物の中トロ鉄火を土産にいそいそやって来る。私は「まだほとぼりが冷めていない」などとおっさんをやや窮地に追い込み、「話は寿司屋で聞こう」と高い寿司屋連れていき、「1万円で仲を取り持つよ」と賄賂の交渉をして小遣いをよく頂いていた。勘違いされると困るので書いておきますが、私はバイオロジカルな父親より、おっさんを本当の父親と思っているんです。


妊娠・中絶

小学5年の時に好きになった人がいたんです。交換日記とかして(笑)。しかし、私が他の男に心奪われすぐ破局(笑)。時は経ち、私が実家に戻り就職して落ち着いた頃、その男と偶然会ったんです。何しろ地元ですからね。いつどこで会っても不思議はないので。話飛び過ぎですが、そしたら子供ができました。私が21の頃で。嬉しくて嬉しくて、でも相手は地元でも有名な遊び人。産みたいと言ったけどお前は性格が悪いから結婚したくないと言われました。私の家も相手の家も地元で商売をしていたんです。うちはね、社長のおじいちゃんが地元のガソリンスタンドの他に7店舗持っていたのですが、相手は八百屋に野菜を下ろす仕事というか、まぁトラックの運転手ですよね。そして私のおじさんは当時三井物産の社長をやっていた事もあったので、格差があり過ぎるとママは結婚に激しく反対。だけど「結婚しなくても子供は産みなさい」なんて言い出す始末。相手の男には、話があるとある日ヤツの会社の倉庫に連れていかれ、フォークリフトの荷物を乗せる所に「面白い事してやるからちょっと乗ってみ」と言われて乗ったら、リフトがウィ~ンと上がり高い場所で突然激しく揺らされたんです。「やめてよ!下ろしてよ!!」と叫びながら見た時のヤツの顔を今も鮮明に覚えてます。落っこちて流産してくれと思ったんでしょうね。そう言えば、私の妊娠・中絶を知った奴の父親が、後日うちの会社にスイカ2つ持ってきたそうだ。詫びのつもりか?



どん底

親から結婚を反対され、相手の男からも子供共々殺されかけ、そして子供は泣く泣く中絶させられ、あげくにはママに勘当されて突然家を蹴りだされた私。元姉が一人暮らしをしていたアパートに迎え入れてくれたけど感じ良かったのは最初の3日で、あとは「早く出てけよ!」とまた追い出された。ロフト付きの安いワンルームを見つけて引っ越したけど、洗濯機も冷蔵庫もコンロも布団も無く、一人で親と男と子供を失った辛さに堪えて、毎日人生の門出に奉仕する仕事をして必死に生きてました。こんな生活状態だったから食料の買いだめや自炊も出来なく、食事は1日1回近所のコンビニでインスタントラーメンを買ってきて炊飯器で40分かけて作るんです(笑)。ネギとか入る日は豪華な食事でね。そんな時地元の色々な友達から知らせが入る。「アイツ、この前女と肩組んで居酒屋から出て来たよ」とか「Sくんのお姉さんと付き合ってるらしいよ」等々。私は極度のストレスやら中絶の名残やら疲労やらが重なって夜中に救急病院へ運ばれた。心身ともにボロボロとはまさにこの事で、そんなどん底の暮らしの中ぼんやりと病院のベッドで天井を見て思ったんです。「アメリカへ行こう」。私はそれからしばらくしてドレス屋を退社し再び風俗の世界に舞い戻った。



希望

闇の世界へと戻った私は、火、金にお休みをもらいあとは週5出勤した。「いらっしゃいませー!」「ありがとうございましたー!」それはまるでファミレスの店員。全てを失った人間、そして目標が決まった人間は強いんです。お陰で私は店で#1のポジションを手にした。お店はママが仕切っていて、しっかり出勤日に時間通りにやって来る私にかなりの信頼を寄せてくれていたようだ。私は渡米に向けて必死に働いてお金をため込んだ。そしていよいよ私のピンサロ最後の出勤日、指名の客さんたちがこぞって来店して下さり、閉店時間はいつもより3時間も延びてしまった。客さんもその他の女の子もいなくなった店内でママが、「今までご苦労様。アメリカへ行っても頑張ってね。もしなにか困った事があったらまいつでも戻って来ないさね」と言って最後のお給料をくれた。そして、「少ないけど、足しにしてちょうだい」と5万円を下さった。私はあのママが大好きだ。あれ以来連絡も取っていないし会ってもいない。それどころか実際どこの誰かも知らない。あの闇の世界と言われる風俗店で女店主をしていたママ。でもあの人は私の中に今でも大きく残っているんです。それとあの頃、死ぬ思いで生きていた自分も、今では良い想い出なんです。


新緑本日のブログ内容、特にこの闇の世界に関しては、
また後日気が向いた時により詳しく
アップしようかなと思ってます新緑



それから3日後


私はスーツケース1つ抱えて
アメリカ、ロサンゼルス行きの飛行機の窓から、
どんどんと小さくなる日本を見ていました。











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時は過ぎあれから18年、


場所は神奈川県横浜市保土ヶ谷区のうちのばーちゃんち。

私は自分の荷物が入った段ボールを開けて、
中から出てくる様々な懐かしい物に喜んでいた。

その時どさくさ紛れに出て来たのが
私の中学時代の成績表であった。




    『バカなのー



さてと・・・・


散々旦那を罵ってきたこの言葉、
一体どうしてくれよう・・


そう、
今長々説明した私の生い立ちから想像してもらえるかと思いますが、
うちは勉強出来るような環境ではなかった、、、

いや、言い訳は見苦しいですね、

勉強したことありませんんでした。。。



でてきた成績表とは、
あの一番荒れに荒れていた時代のもの。

こんな成績を見られた日には




『ピロはお馬鹿さんですからねー

と、死ぬまで言われるのは目に見えている

旦那は「なぜ見せないの?」みたいな顔して待ってる。

マズいだろ~・・・・


小学生時代ですら音楽と図工しか”良い”がないのに、
中学の成績表とかどう見せろと言うのだ。

その時、




そっ、そうだーっ

あの手があったじゃないか
そのままだ!
そのまま見せればいいのだ



そしていよいよ私は勇気を振り絞って成績表を旦那に差し出した。









これは中2の成績表。

こんなもの公開したのだから言い訳の一つくらいさせて下さい。

あの下から2番目の技術家庭の1ですが、私の作る作品は美術も家庭科もほぼ全て職員室の横にある来賓入口の前に置いてあったショーケースに展示されていたんです。それは全校生徒の中から優れた作品ほんの一部しか選ばれないのです。にも関わらず。いかに日本の成績の付け方が偏見であるかを私の成績表が証明できます。



次は中3ですが、


旦那がじーーっと見てます。
私の心臓はハートアタック寸前



一通り見た旦那がやっと口を開いた。











『思ったより全然いいですね。5も多いし』






私は安堵の溜息を気付かれないようについたのでありました。









え?

大げさに言いやがって。
1はあるけど大して悪くねーじゃんか

この阿婆擦れがー

って思ったでしょ今



皆さま、
旦那と同じように騙されておりませぬか

では、種明かしをしましょう。


この成績表は、




































10段階だっぴょーーーーん
花かっぱ花








お勉強というものをした事がなかった私は、
中学時代、見事に5以上を取った事がなかったのでありますが、
そんなあの頃の若気の至りの痕跡が、
今の私の名誉挽回に役立とうとは、


地蔵人生何が福と転じるかわかりませんね地蔵


アオキラアオキラ





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人生のどん底って味わってみるものですよ。もちろん、私程度の人生なんぞ世界中で苦しんでいる子供たちの比ではありません。でもね、辛い経験なくして幸せもあり得ませんから。私がもし恵まれた環境で育っていたとしたら、恐らく金や物欲に溺れ人と醜い争いをし、自ら幸せを見つけて楽しく生きていこうという方向では進めなかったと思います。もちろん、今の私が良いと言っているわけではありません。まだまだ未熟者です。

私はこの過去の通りゴミみたいな人間なのですが、そんな私を嫁にもらってくれた旦那には、ブログでは笑いのネタにしてますが感謝してます。寝て起きると何でもかんでも忘れている旦那。毎日朝から笑いをもたらしてくれる旦那と猫たちは、私には勿体ない存在です。

『私が旦那についた嘘』とは基本的には成績表の事を書いたつもりですが、このブログのほとんどの内容を彼は知りません。それは隠しているわけではありません。もし私が全てを話したら、私は重荷がなくなるけれど、それを代わりに背負うのが旦那だからです。自分の荷物は最後まで自分一人で墓場まで背負って行くつもりなんです。


世の男性の皆さま、
くれぐれも、女に騙されないように( ̄∇ ̄
アオキラ

なんてね


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今宵も一人酒を飲みながら勉強ですよ。


って思っていたら、
旦那が夜食にとオジヤを作ってくれました。


昆布と煮干しとかつおの良いダシがとれてます。


このデカイねぎも旦那の作る料理の特徴です(笑)。


美味しいなぁ。。。。


今夜はね、何でもないオジヤを
心底美味しいと思えるのはなぜなんだろうと
今までの人生を振り返って見た事をブログってみました。




ふふふっ。
さて、
せっかく読者さんやアクセス数が増えてきている時に
このこの黒~いヒストリーブログですからね、
明日には読者さんがガッツリ減っているかも知れませんね。

それも仕方ないでしょう。
しかし、私はブログを自分の記録として使用しているので、
そこにウソは書きたくないのですよ。

今の自分があるのは、
過去の自分のお陰なのです。






最後に、

この記事へのコメントにはお返事を控えようと思いますが、
コメントを残したい方はご自由にどうぞ全身たいつw






長文ご拝読ありがとうございました。




ではでは。


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