象牙の塔の殺人 (創元推理文庫)/東京創元社

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 あけましておめでとうございます。
今年もどうぞ、暇で暇でしょうがなかったら拙ブログにお越しくださいませ。
このブログは基本的に個人の感想倉庫なんですが、もし同じ小説を読んだ人がいて「誰かと感想を分かち合いたいけど、友達が一人もいない!!!!」ってなったときにちょっと覗いていただければ嬉しいなと思って書いております。

 新年一発目の本はアシモフ『象牙の塔の殺人』です。
大学の研究室のお話だということは知っていて読み始めたのですが、当初「大学の建物が象牙でできてるってすげぇなあ!!」と馬鹿みたいなことを思っていました。違いますね。
 「象牙の塔」とは「芸術を至上のものとする人々が俗世間から離れ、芸術を楽しむ静寂・孤高の境地。学者などの現実離れした研究生活や態度、研究室などの閉鎖社会」を指す言葉。フランス語の訳語だそうですよ。「インテリ集団」というかっこいい意味の裏に、「世間知らずなやつら」というネガティブな意味もある言葉だそうです。

 主人公は中年助教授ルイ・ブレイド。彼は自分の研究でなかなか芽が出ず、厄介な生徒を押し付けられる苦労人。家に帰れば「昇進は?」と聞いてくる無知な妻。哀愁が紙面からにじみ出ています。
 そんな折、彼の指導している大学院生であるラルフ・ノイフェルトという学生が実験中に死亡しているのを発見してしまいます。当初は事故として片付けられそうになりましたが、ブレイドは彼の死が殺人であること、そしてその一番の容疑者は自分になってしまうことに思い至ります。自分の大学での職や、化学というものへの姿勢、恩師や同僚、生徒と生徒の恋愛、さまざまな問題に振り回されながらブレイドは象牙の塔の秘密を探っていきます。

 以下ネタバレ

 管理人はてっきりアシモフって物理関係の方だと思っていたんですが、ご専門は生化学だったんですね。私も少しばかり有機化学を齧りましたので今回の話は「あるあるあるw」の連続で面白かったです。化学系の学生だった方はより楽しめたのではないでしょうか。特に有機化学が軌道計算とかしてる量子化学におされていて、昔の場当たり的に合成を繰り返す教授は過去の人っていうのもあるあるすぎですわ。さすがアシモフ先生。

 日本のポスドクの扱いが奴隷だという話はiPSの山中先生のインタビューなどで指摘されていましたが、ポストが無いのはアメリカも同じなんですね。聞いた話によるとアメリカでは優秀な研究員を二人雇って競わせ、どちらか片方だけ採用するといった風習があったのだとか。まさに競争社会という感じですね。
 また、研究員の経歴で大事なのは「どの大学だったか?」というよりも「どの教授の門下生か?」だということなのもよく聞く話ですね。今回はそのつながりが強すぎたことが殺人の動機になってしまうというお話でした。それほど教授の影響力は強くて、学生や研究員はまさに生殺与奪の権を握られているという状況なんでしょうね。

 今回の事件の発端にラルフの犯した「データの改竄」があるのですが、これは去年世間をにぎわせたSTAP細胞を思い起こさせます。老アンスンは「ラルフが死ぬようになったのはきみのせいだ。きみが殺したんだ。きみは責任を免れない。データの改竄が目の前で行われていることに気づかなかったきみの不明ゆえに、ラルフはあたら若い命を落とすことになったのだ(以上引用)」とブレイドを問い詰めますが、これはブレイド=笹井先生に置き換えて考えると……あぁ、ぞっとします。ブレイドも命を狙われますしね……。

 これが50年以上前に書かれた作品だというのに、今なお一級の作品であるといわれる理由が分かった気がします。理系の人におススメのミステリです。
教育の根底にあるもの―決定版/径書房

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 今日から年末年始のお休みという方が大半なんじゃないでしょうか。
せっかくの連続休暇を有意義に過ごしたいと思いつつ、ダラダラしてしまいました。管理人です。

 本日の本は林竹二『教育の根底にあるもの』です。

 2013年、登校拒否をしていた生徒の数は12万人にもなるといわれる現代の学校。「教育亡国」という言葉が嘆かれて久しい近年、その危機感を30年前から抱いていた人がいました。それが著者の林竹二先生です。

 学校の先生のお仕事って大変です。国の定めた学習指導要領を1年間で生徒にきっちりと叩き込まなければならず、それに加えて道徳教育・生活指導という生き方そのものを教えて、さらには保護者まで満足させなければクレームを入れられる……本当に皆さん必死に努力して教師をやっていらっしゃるんだろうなと思います。

 でも林先生に言わせると、それはまったくもって方向性の間違った教育だというんですね。
教育とはすでにある何かを教えるものではない、というんです。そうではなくて、子供の中にある学ぼうとする力、その子にしかない宝のようなものを掘り起こしてあげるものだというんです。

 これってものすごく大変です。子供に近い場所にいないとそんなことは不可能だと思います。この定義が教育だとすれば教師は教師としての権力をすべて失い、一人の生身の人間として生徒に見られることになります。大学時代に学んだ教師としてのテクニックも、学問的知識もまったく意味がありません。林先生はこれを「教師の自己破壊」という絶対に必要なプロセスであると語ります。

 そして、自己破壊ができている教師は、子供に対して「畏敬の念」を持つことができるというんですね。何かを教えなければならない対象としてではなく、生きる力を持った一つの生命としてみることができる。そうすると、彼らが自分の力で生きていけるようにそっと手を差し伸べることができるというんです。

 そうやって手を差し伸べられた子供たちは上から何かを教えこまれたわけではなく、借り物の言葉じゃない「自分の言葉で」考えるようになっていくそうなんですね。自分の言葉で、自分の責任で考えるわけですから、学んだときの衝撃はものすごく大きなものになるんです。その衝撃で顔を覆ってしまうほどショックを受けて(別に先生が何かきついことを言ったわけではないのに)一度自分が破壊されてしまうんです。そして、再び自分を構成するプロセスを経て成長するわけです。林先生は学んだことの証明は、唯一変わったことであるというようなことをおっしゃっています。

 全体的に経験主義的な教育を良しとしている印象でしょうか。子供から出発する教育。これっていわゆるゆとり教育の考え方なんですよね。私もばっちりゆとり世代(1977~2008年に学校にいた子)で、いわゆる馬鹿の代名詞として言われることが多く肩身の狭い思いをしているんですが、この試みって悪い面ばっかりじゃなかったように思いますよ。理念としてはとてもすばらしいものだったんだけど、それによって変わったのが授業数を減らしたこと・教える内容を変えたことっていうハード面ばっかりだったのが失敗だったんだなと思います。

 この考えに苦言を呈する人もものすごく多いだろうな~と思います。やっぱりある程度の知識を詰め込んで思考の土台とすることは必要だろうし、「ゆとり()」と批判が高まっていた近年にはそういう考えがむしろ主流なんじゃないでしょうか。
 でも、大人になったみなさん。応仁の乱って何年か分かります?どこであったか分かります?誰と誰が戦ったかわかります?水酸化ナトリウムと塩酸の中和式かけます?百人一首全部覚えてます?多分完璧に答えられる人って少ないんじゃないでしょうか。管理人は応仁の乱の存在自体覚えてませんよ!!!!あんなに必死に勉強したのに、何にも残ってない。これって教育を受けたって言えるんでしょうか。

 多分この本に書いてあることを実践するのは不可能なんだろうと思います。しかし、一人の人間としていつまでも「学ぶ」ということを忘れたくないなと思いました。

 
リアル・シンデレラ (光文社文庫)/光文社

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 世間様はクリスマスですか!!!
チキン食べて、ケーキ食べて、彼氏と夜景でも見て、いちゃいちゃしているんですかと。管理人はその夜景を構成しているその他大勢の一人でした。みなさんこんばんは、今日も強く生きています。

 さて、こんな心が荒む時期におあつらえ向きの本を読みましょう。姫野カオルコ『リアル・シンデレラ』です。

 誰でも知ってるシンデレラは女の子の憧れ。継母や義理の姉たちに意地悪されてつらい毎日を送っていたシンデレラは精霊の魔法によって素敵なドレスとガラスの靴を与えられ、一夜だけ舞踏会にいくことになります。そこでであった王子に見初められるも、魔法が解ける前に家に帰らなければならなくなりました。シンデレラのことを忘れられない王子は、忘れられた靴をもって彼女を探し出し、二人は幸せに結ばれる。後日談として継母の目を鳥がえぐったというエピソードがあるものもあるような。

 でも待てよと。これって本当に幸せの物語なの?と。
復讐をしている時点でシンデレラは継母と同じ穴の狢であり。シンデレラに一目ぼれした王子は結局外見だけでしょと。シンデレラが年取ったらきっと若いほかの子に浮気しちゃうよと。本当の幸せってこんなんじゃないよね、じゃあどんな話なの?

 という疑問に、ひとつの解答を示したのが本作です。主人公の倉島泉は両親に愛されない子供でした。人々に愛されるのは可憐で体の弱い妹ばかり。泉に来た縁談は妹の深芳の駆け落ちでご破算。その後旅館の経営をしながら決まった見合いの話も、別の女に旦那を奪われて離婚。それでも彼女は不満ひとつ、恨み言ひとつもらさずにその運命を受け入れるのでした。そんな彼女は、周りにいた人たちの心に何を残していったのか。インタビュー形式で倉島泉とそれを取り巻く人の半生が描かれていきます。

以下感想

 この作品。ものすっごい評価が高いんですよ。号泣しました!!みたいな感想もあるし、宮部みゆきさんにいたっては「書いてくださってありがとう」みたいな絶賛の声を寄せているわけです。
 
 読書というものが、自分の中に今までになかった価値観を教えてくれるものであるというのならこの本は間違いなくそれに成功していると思います。私は確かに倉島泉の人生を読んで、自分の価値観とは180度違う生き方を知ったと思います。自分に影響を与えていると思います。

 でも、私は彼女がまっっっっっったく理解できなかったんです。多分魂のレベルといったものが彼女と私では全然違うのでしょう。そもそも人物像がつかめない。美人といわれたりおばさんと言われたり、外見からしても安定しない。行動理論がまったくわからない。
 物語の最後に「自分以外の人が幸せなときは、自分も幸せだと思えるようにしてください」と彼女が願っていたことを知りますが、彼女はその願いをかなえるために自己を必死に曲げたんだろうか?私と同じ様な怒りや葛藤があって、それでも隣人を許すことにしたんだろうか。多分そうじゃないと思うんですよね。彼女はもともと人を恨むということを知らない、妬ましいだとか羨ましいだとかそんな感情がないんじゃないでしょうか。だとすると、彼女と私は根本的に違う生き物なんです。「あー、そういう人がそういう風に生きたんだな。自分にはまったく関係ないけど」って思って終わりなんです。

 理解できないのがとても悔しいですし、こんなもやもやとした軽い怒りを感じた読書は久しぶりなので。やはり名作なんだと思います。