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『カブラの冬──第一次世界大戦期ドイツの飢饉と民衆』を読んで。 カブラ料理

 

前に紹介した第一次世界大戦時代のスウェーデン映画『マリア・ラーション 永遠の瞬間』でも出てきたカブラ[ルタバガ(スウェーデンカブ)]の話です。

 

都会では、子供たちが食糧不足のために盗みを働いた。

『カブラの冬──第一次世界大戦期ドイツの飢饉と民衆』藤原辰史著(人文書院、
2011年)

 第一次世界大戦下のドイツで7080万人もの餓死者を出したと言われる「カブラの冬」(191617年)。開戦によって海外からの食糧輸入ルートは遮断され、当初、長期戦になろうとは誰も予想していなかったので食糧問題には何らの考慮も払われておらず、(大戦前の時期に小麦はアメリカ・ロシア・アルゼンチン・カナダなどから大麦はロシアからたくさん輸入していたにも戦争は短く終わると考えて準備なしに開戦してしまったこと、パンにジャガイモを混ぜるなどの工夫や代用食、馬の徴用や男性労働者が徴兵され肥料の輸入も不能となり食料生産が低迷したこと)付け焼刃的な食糧政策はかえって混乱に拍車をかけた。例えば、「豚殺し」。学者のはじき出した単純なカロリー計算によると、豚飼育用のジャガイモは人間の消費量を上回る。ならば、豚は殺してしまえ──しかし、人間のエネルギー源として穀物と脂肪分とで果たす役割の相違を無視した暴論は飢餓をより深刻なものとした。

 

 食料品店、ベルリン、夏1917の写真の前で人々の待ち行列

飢餓にまつわる不満を訴えようにも政治システムとして適切な代表ルートがなかったため革命を誘発。続くヴァイマル共和国期でも食糧政策の脆弱性や不平等性は克服できず、大戦中に実体験した飢餓に根ざした憎悪感情は行き場を失い、ナチズム台頭を後押しする契機となった。こうした憎悪は、「飢えたドイツ人/豊かなユダヤ人」という人種主義的偏見を増幅させたり、「食糧さえ確保できていれば戦争には勝てたかもしれない」(背後からの一突き伝説)という「終わり損ねた戦争」意識をもたらした。海上封鎖を受けたことは、海外植民地ではなく東方拡大を目指したヒトラーの「広域経済圏」構想にもつながったという。

 

 飢餓という生命維持に根ざした根源的な記憶がその後のドイツ革命、ヴァイマル共和国期、さらにはナチズムへと如何に深刻な影響を及ぼしていったのか、そこを農業生産という視点で一つの見通しをつけていく手際が鮮やかである。

 

日本では、1918年には、米騒動が起きています。これは、1914年(大正3年)の第一次世界大戦開始の直後に暴落した米価は、周りの物価が少しずつ上昇していく中で、約3年半の間ほぼ変わらない値段で推移していたが、1918年(大正7年)の中頃から急激に上昇し始めた。あります。

食糧不足の不満を戦争へ向かわせるのはどの国でもあるのですね。

 

ジャガイモの配給、ピルマゼンス1917のお知らせ

さて、「カブラの冬」第一次世界大戦中のヨーロッパ大陸では、他の食物が底をついたあと最後に食べるものとされ、食物としては不評だった。
特にドイツでは、1916年から1917年にかけての"Steckrübenwinter"(ルタバガの冬)別名「カブラの冬」[2]と呼ばれる食糧難を、ルタバガを常食に飢えをしのいだ反動か、その後不人気となり生産量が減ったといわれている。1916年から1917年の冬にドイツで大飢饉が初めてだった。カブが不足しているジャガイモを交換しなければならなかった、

 

これは第一次世界大戦戦争では、公衆への提供はカブのスープに落ちた

「カブラの冬」時代にたべられた料理。

カブのスープ、スウェーデン人のキャセロール、カブチョップ、カブプリン、カブジャムやカブパンに供給した。

ネットでスウェーデンカブの料理を調べてみました。カブのスープ


 カブパン

 キャセロール

カブのグラタン