ワルシャワ蜂起は何故始まったのか?
①赤軍が到着する前にワルシャワの支配権を回復し、国家権力を再建する。その上で、ポーランドの正当な主権者としての立場で赤軍を迎い入れる。
②国内軍が全精力を投入してドイツ軍と戦っている事実を全世界に示す。
③赤軍との共同作戦を通じてドイツ軍を敗北に追い込む意思があることを示し、それによってポーランド・ソ連関係を改善する。
④五年間にわたってポーランド国民を仰圧してきたドイツ軍に復習する。
⑤ヴィスワ川西岸でのドイツ軍の作戦行動と通信網を麻痺させ、それによって赤軍の攻撃を容易にならしめ、ワルシャワを壊滅から救う。
⑥ヴィスワ川戦線の固定化を阻止する。ヴィスワ川戦線が固定化すれば、ワルシャワとその市民は重大な被害を受け、市民は強制退去を迫られる恐れがある。
⑦ドイツ軍がワルシャワの要塞化を目的として計画しているワルシャワ市民10万人動員を阻止する。動員を許せば、国内軍の兵力が失われ・・・・わが方は不利な状況に追い込まれる。
⑧この決定的な瞬間の行動を起こさなければ、これまでの五年間にわたって対独決起を準備してきた兵士と市民の士気の低下を招く恐れがある・・・・。
⑨市民も間にドイツ軍との決着を求める機運が高まっており、たとえ我々が関与し、また準備しないでも、自然発生的に無秩序な戦闘が始まるおそれが十分にある。
一方、ワルシャワのための戦いに反対する意見も次のようなもっともんは論拠があった。
①ポーランドとソ連との外交関係が修復できていないでいるために、ソ連政府の出方をしることが出来ない・・・・ソ連政府の意向で赤軍が攻撃を停止し、我々を支援しない事実も十分に予想できる。
②赤軍司令部との通信手段が存在しないので、作戦の調整できない。
③ワルシャワ市内の国内軍の兵力が不足する恐れがある・・・・武器も十分ではない。特に、ドイツ軍の戦車に対抗する武器が不足しており、砲兵隊、対空砲兵隊、航空機が欠如している・・・ワルシャワ地区司令官のモンテル将軍によれば、確保されている装備と弾薬は五日分に過ぎない。
④民間人に多数の死傷者がでる恐れがあり、市内の建物や設備も重大な被害を受ける可能性がある。赤軍が進撃を停止した場合には、被害は特に著しくなる。
戦闘の経過
戦闘の開始は1944年8月1日17時だったが、それより早い時間に銃撃戦の応酬が始まっていた。
ドイツ軍を不意打ちすることはできなかった。ドイツ軍は蜂起を予想しており、あらかじめ対策を準備していた。
戦闘の開始段階では、目標の20パーセントを達成したに過ぎなかった。困難な時期だった。ドイツ軍は街頭に戦車を配置した。
戦車との戦いは想定外だった・・・戦車との戦いが三日間ないし四日間続いた。蜂起軍は守りを固め、兵士たちは、火炎瓶、手榴弾、手製の火炎放射器、手榴弾発射装置などを使って戦車と戦う方法を編み出した。日が経つにつれて、ドイツ軍に被害を与えることが出るようになった。・・・(ドイツの戦車10両を奪い反撃に使用した)ドイツ軍からかなりの量の武器と弾薬を奪ったので、予定より長い期間戦闘を続ける見通しがたった。
次の段階に入ると、ドイツ軍は銃砲と爆撃機を特定地域に集中的に砲撃し、爆撃してきた・・・・八月中旬には旧市街地区にドイツ軍が突入し、二十日間にわたって激戦が続いた・・・・建物を一棟ずつ奪い合う接近戦だった。ドイツ軍は旧市街地区に対して歩兵大隊12個、砲兵隊、迫撃砲部隊を投入し、大規模な空爆を行う計画だった。旧市内地区に残っていた国内軍は下水道経由してジョリボシュ地区と中央地区に脱出した。
ワルシャワ蜂起の記念碑
下水道に入る兵士
次にジョリボシュ地区と中央地区へ爆撃を強化した。国内軍は持ちこたえられなかった。
1944年9月30日ジョリボシュ地区のブル=コモロフス将軍の命令で戦闘は終結した。その後降伏交渉が再開された。(ブル=コモロフス将軍の証言より本文)
ワルシャワ蜂起降伏へ
この間も赤軍との連携の試みはあったが対岸のロコスキー元帥とは連絡が取れなかった。
食料が完全に.底をつき兵士が民間人の食料を強奪する事件が発生していた。
飲料水もほとんど残っていなかった。兵士たち五年間の地下活動に疲労していた。ソ連の公安組織への恐れがあったソ連はヴィリニュウスでもルヴフでもルブリンでも国内軍兵士を逮捕していた。ドイツ軍との降伏合意の条件を守ることを名誉と誤解していた。
有名人に教皇ヨハネ・パウロ二世がいる。ワルシャワ蜂起を受けてドイツはクラクフでも予防措置として青年男子の一斉逮捕が始まっていたとき、地下国家の俳優で神父になることを夢見ていた青年はゲシュタポから逮捕から逃れ大司教の秘書の身分が与えられ助けられる。
ゲットーの芸術カフェでピアノを演奏していた。シュピルマン(戦場のピアニスト)
シンドラーのリストのシンドラーは一旗組みの実業家の一人と紹介されています。
1956年のスターリン死後のポーランドでは緩やかにカトリックの復活が始まり、映画でワイダの下水道など映画など体制に批判的な作品も作られていき、その後の連帯への動きへと繋がっていくよういくようです。
1943年4月、ドイツ軍はソ連領のカティンで多数のポーランド人将校の遺体を発見したと発表する。カティンの森のような事件ではソ連が罪を認めようとしない。映画では夫の死を知ったアンナが「カティンの森」の真実を刻んだ墓石を教会に設置しようとしても、それすらも許されず逮捕される。真実を知らせることがいかに危険なことであったかを知ることができる一冊にもなっています。
カンティンの森の事件記念碑
ロシアとドイツ両大国に挟まれたポーランドは自国の独立を守るために何時も抵抗の歴史を繰り返してきました。


