ワルシャワ蜂起1944上下 を読んで パートⅠ パートⅡに続くよ | ・・・   旅と映画とB級グルメ と ちょっと本 のブログ

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ワイダのワルシャワ蜂起を題材にした映画

下水道のラストシーンにあるヴィスワ川の対岸にソ連の赤軍が迫っていた。しかし赤軍はやってこなかった。致命傷を負った兵士を担ぐようにして出口を探す女兵士との愛の真実を描いて感動させる。女兵士の必死の努力で出口にたどり着いたがそこには非常にも鉄格子がしっかり嵌められており河にでることはできない!絶望ではあるが愛する人との最後を迎える充足感を描いて見事である。ワイダ監督がソ連の赤軍を批判しかつ分からないように工夫したのはその鉄格子の向こう側、 
河の対岸にソ連の赤軍の映像。この映画の意味が理解するために是非読んで起きたい一冊です。

 

ワルシャワ蜂起1944 上下 

欧州大戦を俯瞰しながら、ポーランド史の文脈に「蜂起」を位置づける。肉声も再現して、抵抗の真実に迫る決定版。欧米各紙誌が激賞、英国の重鎮による圧巻の書。写真多数・付録収録。

「胸が締めつけられる…史上最大の英雄的な悲劇」アントニー・ビーヴァー

 

(八月一日)午後五時、赤白の腕章をつけた威勢のよい若者たちのグループが計画どおりにドイツ軍の拠点を襲撃し、守りを突破して侵入し、爆弾を投げ込んだ。通りにはまだ市民が残っていた。飛び交う流れ弾に当たって倒れる市民がいた。……最初の戦闘で犠牲になった人数は二五〇〇人、その八〇パーセントが国内軍の兵士だった。これはノルマンディー上陸作戦の初日に当たるDデーに連合軍が失った人命とほぼ同数である。[「蜂起開始」より]

 

アントニー・ビーヴァー推薦! 現代史の必読書 一九四四年八月一日、ワルシャワで蜂起したポーランド国内軍(AK)は、圧倒的なドイツ占領軍を相手に二ヶ月にわたって激しい市街戦を展開したが、十月三日、最終的にドイツ軍に降伏した。その間、英米を中心とする連合国からは十分な支援が得られず、ヴィスワ川東岸まで迫っていたソ連軍は対岸の蜂起を傍観した。二十万人の市民が犠牲となり、八十万人が強制収容所に送られたといい、ワルシャワは完全に破壊され、瓦礫と化した……。 「ワルシャワ蜂起」には、第二次大戦を戦った英米など連合国、ドイツ、ソ連の三者の複雑な関係が集約的に表れており、東欧諸国が戦後にたどることになる運命を占う結節点でもあった。まさに二十一世紀を左右した戦いであった。 本書は、欧州大戦全般を俯瞰しながら、ポーランド史の文脈に「蜂起」を位置づける。肉声が伝える臨場感にあふれ、抵抗運動の真実に迫る決定版! 著者は中欧・東欧地域専攻の英国の歴史家で、とりわけポーランド史の権威。

 

 

 

 [目次] 地図 19446月のヨーロッパ 凡例 序言 序章

 

 第1部 蜂起の前

 

第1章 連合国 第2章 ドイツ軍による占領 第3章 迫り来る東部戦線 第4章 レジスタンス

 

 第2部 蜂起

第5章 ワルシャワ蜂起 蜂起開始 膠着状態 消耗戦

 

 ノーマン・デイヴィス Norman Davies 1939年生まれ。中欧・東欧地域専攻の英国の歴史家。とりわけポーランド史の権威であり、ロシア革命後のポーランド・ソ連戦争を扱ったWhite Eagle, Red Star : The Polish-Soviet War 1919-201972)、ポーランド通史として書かれ、ポーランド国内でも広く読まれているGods Playground : A History of Poland1981)、Heart of Europe : A Short History of Poland1984)、ブロツワフ(ブレスラウ)市の歴史を描いたMicrocosm : Portrait of a Central European City2000)がある。

 

 

内容

連合国とは、フランスとイギリスとポーランドで始まった。(ドイツとソ連の不可侵条約に対抗するために)

スターリングラードの敗戦からドイツ軍の後退が始まっていた。

1944年ワルシャワのすぐ手前までソ連の赤軍が迫っていた。

MI6の失敗から始まった。「ワルシャワ蜂起が始まる」の連絡を受けたMI6は正しく受け取ることが出来ず連絡の連合国側への連絡が遅れた。

前大戦中はナチス・ドイツへの諜報活動を行い、ドイツ国防軍情報部アプヴェールやナチス親衛隊保安部、ゲシュタポと渡り合った。米OSS(後のCIAの前身)やSOE(英国の特殊作戦を執行するための部署)とも連携して、ヨーロッパ大陸のナチス占領地区における連合国側情報網の成立にあたった。

一九四四年八月一日、ワルシャワで蜂起したポーランド国内軍(AK)は、圧倒的なドイツ占領軍を相手に二ヶ月にわたって激しい市街戦を展開したが、十月三日、最終的にドイツ軍に降伏した。その間、英米を中心とする連合国からは十分な支援が得られず、ヴィスワ川東岸まで迫っていたソ連軍は対岸の蜂起を傍観した。二十万人の市民が犠牲となり、八十万人が強制収容所に送られたといい、ワルシャワは完全に破壊され、瓦礫と化した……。  「ワルシャワ蜂起」には、第二次大戦を戦った英米など連合国、ドイツ、ソ連の三者の複雑な関係が集約的に表れており、東欧諸国が戦後にたどることになる運命を占う結節点でもあった。まさに二十一世紀を左右した戦いであった。  本書は、欧州大戦全般を俯瞰しながら、ポーランド史の文脈に「蜂起」を位置づける。肉声が伝える臨場感にあふれ、抵抗運動の真実に迫る決定版!

 

1944年、ソビエト軍によるバグラチオン作戦の成功により、ドイツ中央軍集団は壊滅し、ナチス・ドイツは敗走を重ねた。ドイツ軍は東部占領地域に再編成・治安維持のために駐屯する部隊をかき集めて戦線の穴を埋めて防戦に努めた。

 

解放地域がポーランド国内に及ぶと、ソ連軍はポーランドのレジスタンスに蜂起を呼びかけた。730日にはソ連軍がワルシャワから10kmの地点までに進出する。ソ連軍のワルシャワ入城も時間の問題と思われた。ポーランド国内軍はそれに呼応するような形で、81日にドイツ軍兵力が希薄になったワルシャワで武装蜂起することをソ連軍と打ち合わせた。

 

しかし、731日にはドイツ軍が反撃、ソ連軍は甚大な損害を被る。さらにドイツ軍の増援部隊が戦線に次々と配備され、これ以上の進撃は不可能な状態となる。ソ連軍は進軍を停止して防戦に転じた。しかし、国内軍には進撃停止の情報は伝えられないまま、81日午後2時頃に約5万人の国内軍は蜂起した。国内軍は橋、官庁、駅、ドイツ軍の兵舎、補給所を襲撃する。

 

ワルシャワ市内には治安部隊を中心に約12千名のドイツ兵が駐屯していた。その内、戦闘部隊と呼べるのはオストプロイセン擲弾兵連隊の約1千名だけであった。ドイツ軍治安部隊は数で劣っていたものの奮戦し、国内軍は目標地点のほとんどを占領できず、わずかにドイツ軍の兵舎、補給所を占領しただけであった。即日報告を受けたヒトラーは、これをみて、ソ連軍がワルシャワを救出する気が全くないと判断し、蜂起した国内軍の弾圧とワルシャワの徹底した破壊を命ずる。

 

国内軍は引き続き、目標地点に攻撃を仕掛けるが、成果は上がらず、警察署、電話局では取り残されたドイツ軍部隊が徹底抗戦を行っていた。しかし、ドイツ軍の補給所、兵舎の占領により、当初数人に一人しか銃が無いという状態を脱し、奪ったドイツ軍の小火器、軍服が国内軍兵士に支給され、装備面で改善が見られた。これにより、敵味方が同じ軍服を着用するため、国内軍兵士はポーランド国旗の腕章を着用し、識別を行った。さらに多くの市民が国内軍に参加、協力をして、ドイツ軍の反撃に備えバリケードを築いた。

 

鎮圧軍司令官に任ぜられたエーリヒ・フォン・デム・バッハSS大将は83日には現地に入り、周辺の部隊をかき集め、5日には反撃に出る。急遽近隣に駐屯していた部隊をかき集めたドイツ軍は殆どが大隊規模の部隊だけで、臨時に戦闘団に編成し、市街地西側から攻撃を開始する。しかし、国内軍の猛烈な防戦に会い、進撃は遅々として進まなかった。攻撃部隊にはカミンスキー旅団やSS特別連隊ディルレヴァンガー といった素行の悪さで有名な部隊が加わっており、これらの部隊の兵士たちは戦闘より略奪や暴行、虐殺に励んだ。このことはワルシャワ市民と国内軍の結束を一層強め、戦意を高揚させた。

 

7日には市街地を何とか横断し、国内軍占領地を分断し、包囲されていた部隊を解放した。しかし、市街地に立て籠もる国内軍の抵抗はすさまじく、激しい市街戦が続く。国内軍も819日に総反撃に出て、電話局を占領し、120名のドイツ兵が捕虜になった。ディルレヴァンガー連隊、カミンスキー旅団の残虐行為の報復として、捕虜のうち武装SS、外国人義勇兵は全員その場で処刑された。

 

終焉しかし、ドイツ軍は重火器、戦車、火炎放射器など圧倒的な火力の差で徐々に国内軍を追いつめていった。827日、あまりにも目に余るカミンスキー旅団の残虐行為に、ハインリヒ・ヒムラーは司令部に対し、カミンスキーの処刑を許可した。カミンスキーは逃亡を図るが、逮捕されて処刑された。カミンスキー旅団はワルシャワから撤退し、解散した。831日には、国内軍は分断された北側の解放区を放棄し、地下水道を使って南側の解放区に脱出する。9月末には国内軍はほぼ潰滅する。

 

ソビエトはイギリスやアメリカの航空機に対する飛行場での再補給や、西側連合国による反乱軍の航空支援に対し同意せず、質・量に勝るドイツ軍に圧倒され、蜂起は失敗に終わる。

 

ワルシャワの破壊その後、ドイツ軍による懲罰的攻撃によりワルシャワは徹底した破壊にさらされ、蜂起参加者はテロリストとされ、レジスタンス・市民約22万人が戦死・処刑で死亡したと言われる。しかし、イギリス政府がワルシャワのレジスタンスを処刑した者は戦犯とみなすとラジオを通して宣言したため、レジスタンスへの処刑は止んだ。103日、国内軍はドイツ軍に降伏しワルシャワ蜂起は完全に鎮圧された。翌日、ワルシャワ工科大学に国内軍は行進し、降伏式典の後、武装解除された。降伏した国内軍は、捕虜として扱われて捕虜収容所に送られた。しかし、武装解除に応ぜず、地下に潜伏して抵抗を続ける者も多かった。

 

ワルシャワ蜂起を指導したのは亡命ポーランド政府である。ポーランドには第二次世界大戦勃発時にパリそしてその後にロンドンに亡命した亡命ポーランド政府が存在した。亡命ポーランド政府にとってソ連は自国をドイツとともに侵略した国家であったが独ソ戦開始後は亡命ポーランド政府とソ連に接近する。さまざまな問題により決してよい状態でなかった両政府の関係はカティンの森事件の発覚により決定的に悪化することとなった。

 

東欧を解放してきたソ連は、ロンドンの亡命ポーランド政府とは別に共産党系主導の親ソ派政権の樹立を目標としており、敵対する亡命政府側主導の武装蜂起とは、政治的にあいいれるものではなかった。そのためワルシャワ蜂起は亡命ポーランド政府主導の組織を壊滅させるためのソビエトの意図的な陰謀であったという説も根強い。

 

ワルシャワ蜂起を題材とした作品・文献「世代」・「地下水道」(1957年、ポーランド映画):反独レジスタンスを描いたアンジェイ・ワイダ監督の三部作の第一作・第二作。「地下水道」はカンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞している。 「灰とダイヤモンド」(1958年、ポーランド映画):同名の長編小説を、作者の協力を得て映画化したもので、反ソ化したレジスタンスの生き様を描いたワイダ監督の三部作の第三作。平凡に生きようとするが生きられず、共産党要人暗殺を命じられ、最後はゴミ捨て場で死ぬ様は、共産政権下でありながら、かなり中立的な視点で描かれている。ヴェネチア映画祭批評家連盟賞を受賞しており、映画史上でも評価が高い。 「鷲の指輪」(1992年、ポーランド映画):「灰とダイヤモンド」により共産政府の不興を買っていたワイダ監督が、共産政権崩壊後再びワルシャワ蜂起を問い直した映画。 「戦場のピアニスト」(2002年、フランス・ドイツ・ポーランド・イギリス映画):物語はワルシャワを舞台にし、映画の終盤はワルシャワ蜂起後の廃墟のワルシャワ。

 

地下水道 1944年のワルシャワ蜂起を描いた作品です。東からソ連軍が侵攻し、ナチス・ドイツ軍が長年に渡るポーランド支配を失おうとしている状況で、いよいよ、ソ連軍によって開放されると思ったワルシャワ市民がナチス・ドイツ軍に対して反乱を起こします。ところが、市内に突入すると思われたソ連軍はそのまま停止し、ワルシャワ市民を見殺しにすることになります。落ちぶれたとはいえ、まだドイツ軍は重装備の正規軍です。頼みの綱のソ連軍に見放されたレジスタンスのメンバーはひとりまたひとりとドイツ軍に駆逐され、生き残ったメンバーは地下水道を逃げ回ります。やがて鉄格子越しに彼らが観たものは・・・。日本では余り知られていない、第二次世界大戦末期の悲劇を描いた名作です。
パートⅡに続きますこの本に出てる有名人を紹介してるよ。