今日は復活の主日でした。
カトリック教会では、昨日の夜、復活徹夜祭があって、明けて今朝、信徒たちは、互いに「ご復活おめでとうございます」とあいさつします。
3月2日の「灰の水曜日」から始まった四旬節は6週間が経って、4月13日で終わりました。
そして4月14日からの3日間は、過越(すぎこし)の聖なる3日間といって、教会では、イエスさまの受難を追体験する…みたいな儀式が行われます。
6週間は6×7日=42日ですよね。イエスさまが荒れ野で悪魔の誘惑を受けたのは40日だから、2日超過してる! などと心配はご無用ですよ。灰の水曜日と6回目の日曜日は勘定に入れないらしい…。
で、その勘定に入れない6回目の日曜日、4月10日は「枝の主日」あるいは「受難の主日」と言います。
キリストが小さなロバに乗ってエルサレムに入城したとき「救い主が来てくださった!」と、人々が自分の服やナツメヤシの枝を道に敷いて出迎えたこと(そのように聖書に書いてあるのですよ)を記念してお祝いする日です。
日本にはナツメヤシがないので、シュロ(*)で代用します。
過越の聖なる3日間に行われる儀式も、聖書に書いてあることを再現するものです。
聖木曜日はいわゆる「最後の晩餐」の日で、このとき、イエスさまは弟子たちの足を洗い、弟子たちにも「お互いの足を洗い合いなさい」と言います。「へりくだる 」ことを教えたのね。
イエスさまがいなくなったあと、弟子たちのなかで「我こそは!」的な継承者争いとか、それによる仲間割れが起きないように考えたのかしらね。
組織の維持には、お互いをリスペクトし合うことが大切です。
…で、教会でも神父さまが実際に信徒の足を洗います。今年、ローマ法王は刑務所に出向いて受刑者の足を洗ったそうです。それは「もう悪いことから足を洗いなさい」という意味ではありませぬ、誤解なきよう…。
この儀式も、うちの教会では2年前から感染防止のため中止しています。(コロナウイルスの感染防止ですよ、水虫の感染防止ではありませぬ、念のため…)
聖木曜日には、ミサで聖別されたホスチア(水と小麦粉だけで、イースト菌を入れずに作ったパン)を信徒たちが頂いたあと、その「ご聖体(聖別されたら、パンはイエスさまの体になるのね)」を祭壇じゃないところに移します。
ちなみにミサで、信徒たちがホスチアとワインを頂くのは、「最後の晩餐」のときに、死を覚悟したイエスさまが食卓のパンとワインを「これからは私の体と血だと思って(*)口にしなさい」と、弟子たちに言われたからなんです。遺言のようなものですね。
さて、聖金曜日には、イエス像にもマリア像にも布がかけられ、祭壇には何もありません。
いつものミサも行われません。イエスさまがいなくなったのです…。
お聖堂に入られた神父さまは、祭壇の前で床にひれ伏して沈黙の祈りを捧げます。
このあと、イエスさまの受難を言葉で再現する聖書朗読があります。かなり長い…。
イエスとかピラト、群衆とか役を分担して、ちょっとした群読をします。
芝居好きの私は、こんなふうに演劇的に儀式が行われることに少なからずワクワクしてしまいます。教会って楽しい~と思うのですよ。
そして、歌も朗読も、もっと心を込めた表現にしてほしい…などとも思ってしまいます。
でも、ま、皆さん、プロの表現者ではありませんので、淡々と、あるいはプチ照れながら…なのね。
そして、土曜日の復活徹夜祭では、会衆がみんなローソクを持ち、光の祭儀が行われます。
イエスさまがいない暗闇に、1本のローソクの灯りが現れ、その火が次々と信徒たちが手にしてるローソクに灯されるのです。
どんなに絶望の状況にあっても、必ず希望の光が訪れる!
それが「復活」なのです。
死んだ人が生き返るって話じゃないのね。
そして夜は明けて、朝がやってきます。
必ず朝はやって来るでしょう。
だから「ご復活おめでとうございます」とあいさつするのですよ。
(*)の付いてる箇所には間違いがあることをご指摘いただきました。いい加減なこと書いちゃってます、ゴメンナサイm(__)m
コメント欄で、小夏さんが丁寧にご説明くださってますので、ぜひ、そちらを読んでくださいね。