「わが庵は 都の巽 しかぞ住む 世をうぢ山と 人はいふなり」という和歌を残し、宇治山に隠棲して昇仙した(仙人となって天に昇った)喜撰法師が好きなのだが、先日、信者さんの車に乗せてもらっている時に、ちょっと道を逸れれば喜撰山の麓ですよと仰ったので、寄り道をして頂くことにした。
昔、喜撰山中の喜撰洞という所だけはお詣りしたことがあって、洞内の質素な喜撰法師像を拝んだ時に、
先達に せめて衣を きせん洞
という拙い川柳を詠んだものだが、本当は宇治の平等院の辺りから山中を歩いて喜撰山ダムと喜撰洞に至るコースがあるそうで、山歩きの方が何人も普通に登山記録をインターネット上で紹介しておられるから、一度は行脚してみたいと思っていた。
紙上巡礼で地図を見ていた時に何度も目にした喜撰山大橋、上記の登山道は本当はこの橋からではなく、途中の別の橋か宇治市内から向かうようで、喜撰山大橋の方は一般人の通行を禁じていたのだけれど、何度も何度も地図で見たこの橋から宇治山を望み、私はとても感動した。
以前に纏めた、喜撰法師に関する資料一覧も、改めて再録させて頂くことに致します。
喜撰式 885年
但し、これは喜撰法師に仮託した偽書というのが定説なので、喜撰法師の文献における初見は、次の古今和歌集となる。
古今集 905年 本文に「わが庵は」の歌が収録されているのと、序文に喜撰法師が六歌仙の一人であるということが記されている。
本朝神仙伝 1109年以前
「窺仙」という表記になっている。喜撰法師のことが記載されていること自体は他の書物に見えるのだが、本文は散逸。
無名抄 1210年頃
鴨長明の和歌論で、喜撰法師や喜撰洞についての記述がある。
百人一首 1221年頃? 「わが庵は」収録。
玉葉和歌集 1300年頃
喜撰法師のもう一つだけ伝わる和歌「木の間より 見ゆるは谷の 蛍かも…」が載っている。
元亨釈書 1332年 久米仙人と共に喜撰法師のことを「窺仙」として取り上げている。
扶桑陰逸伝 1664年頃
「喜撰」の項がある。
本朝列仙伝 1686年頃
平安時代の「本朝神仙伝」の続編という趣旨で著された江戸時代の書で、「本朝神仙伝」同様、「窺仙」の表記。
本朝高僧伝 1702頃
「城州宇治山喜撰伝」の項がある。
歌舞伎 「六歌仙容彩」 1831年頃
ここでの喜撰法師の行跡は、全く創作上の空想に基づくもの。
おしまい。
※上の画像は「本朝列仙伝」です。
※「ホームページ アジアのお坊さん 本編」もご覧ください