合掌あれこれ | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

今まで「合掌」について書かせて頂いたあれこれを箇条書きにまとめてみることにした。

 

・タイで修行し始めの頃、まだ上座部僧となるための得度式を終える前に、日本のお坊さん姿で近くの小さなお寺の僧坊に招き入れられたことがある。

その時、飲み水を持って来てくれたデック・ワット(寺男)の少年に、私が合掌しようとしたら、周囲のお坊さんたちに慌てて止められた。

なるほど、こちらでは大乗仏教僧であっても、お坊さんが在家の人に対して合掌してはいけないんだなと、その時、刷り込まれた。

 

・得度式を終えてテーラワーダ仏教僧となった後、私の止宿するワット・パクナムというお寺に、日本のとあるお偉い年配のお坊さまが従者を連れて、インドへの仏跡巡礼の途次に立ち寄られたことがある。

会見の間で、日本人の老僧は寺から敬意を表されて椅子に坐らせてもらっていたので、まだ若かった私は、初対面で他宗派の年配の日本のお坊さまに対して失礼のないように合掌して挨拶しようとしたのだが、今度はものすごくたくさんのタイのお坊さんたちや寺の職員たちが、一斉に悲鳴を上げて私を取り囲んで制止した。

 

・テーラワーダのお坊さんは大乗仏教のお坊さんに対してであっても合掌してはいけない訳だが、その後、日本仏教僧として赴任したインドのブッダガヤには、テーラワーダと大乗の寺院が混在していたので、テーラワーダ僧の合掌具合を観察してみると、仲良しだから愛想よく挨拶はしてくれるけれど、私の合掌に対してさりげなく片手を上げて応えていたりするだけの方も多かった。

 

・その反面、何の屈託もなく合掌を返してくれるテーラワーダのお坊さんも、意外と少なくはなかった。融通の利くインド仏教僧のみならず、タイのお坊さんの中でも、とりわけ戒律遵守に厳しいタマユット派のタイ寺院のお坊さんたちでも、本当に気さくに合掌を返してくれる人がいたものだ。

 

・だからテーラワーダのお坊さんが、大乗仏教のお坊さんに対して合掌しない、なぜならばテーラワーダのお坊さんは、大乗仏教のお坊さんのことを正式なお坊さんとは認めていないからだという説明は、必ずしも正しくないと私は思っている。

 

・さて、インド、ネパール、スリランカ、タイといった国々ではお坊さん以外の一般の方たちが、挨拶の時に合掌する。これはヒンドゥー教やテラワーダ仏教のようなインド文化が伝わった地域の習慣なわけだ。

 

・ではそもそもインドではなぜ手を合わせて挨拶するようになったのだろうか? お縄や手錠を受けるかのように両手を差し出す絶対服従のポーズが相手への帰依を表わすことになったという人類学説を読んだこともあるし、不浄の左手と浄の右手を合わせることにより、浄不浄を超えた境地を表わすのだなどという説明もよく行われる。

 

中国の拱手、中国伝来と思われる日本の仏教や神道の叉手、キリスト教の按手など、地球上には洋の東西を問わず手を合わせる挨拶や作法がいろいろあるし、仏教には様々な種類の合掌法が伝わっているところを見ると、両手を合わせるという行為は仏教徒に限らない人類共通の動作であり、手や指の発達が道具の使用と共に人類の脳の進化を促したのだから、手を合わせることが精神の安定に影響し、心を落ち着けることになるから合掌するようになったのではないかと私は考えている。

 

最後に余談ながら、合掌したくても片手がふさがっている時に、もう一方の手だけを立ててお参りすることを「片手拝み」と表現しておられる方がいるが、我々の方ではそれを「半掌」などと呼ぶ。ただし法儀集などにそんな作法は見えないし、どこまでこれが正しい呼び方なのかは知らない。一見、玄人っぽくて格好良く見えるのかも知れないが、できる限りは両手を合わせて合掌するように心がけるべきではある。ただ、最近になって、天台宗の法儀集にこんな箇所を見つけた。

 

「揖礼(しゅうれい)は起立平座に関わらず合掌し、いささか低頭して会釈する礼であって礼法中の最略式のもので、手に朱扇、華籠等を持つ時は合掌に及ばない。」

 

半掌という文字はないが、手に物を持っている場合の片手拝みは反則ではないということになるのかも知れない。

 

 

                  おしまい。

 

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