僧侶の作法についての私的な思い出 | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

失礼を承知で書かせて頂くと、私が小僧修行をさせて頂いた門跡寺院の老僧は信者や弟子の多い人で、その中には修験道関係の方や、いわゆる拝み屋に類する人もいたのだが、時折りあくの強い主張をして来られる修験の行者さんなどが帰られた後に、ああ、やっぱり優婆塞じゃなあと嘆息しておられることがよくあった。

 

さて、そのお寺での小僧修行の後に無事本山での正式な行を終え、観光寺院での役僧などもさせて頂いたもののまだまだ駆け出しという時期に、歩き遍路で四国八十八ケ所を巡らせて頂いたことがある。

 

お接待で泊めて頂いた何カ所かの遍路宿の内、一軒の主が修験の行者さんで、就寝前に仏教談義を持ち掛けられた上にご自身の数珠の由来を延々と聞かされ、さらにまた(密教の)護身法(という印)を結ぶ作法についての心得も諄々と説いて頂いた。護身法は心を込めて、力を込めて結ぶことによって、本当に仏がこの身体を守ってくれるんだよ、けれどあんたたちの方ではどういう風に習うんだ? といった感じで。

 

ところで真言宗と違って天台宗では顕教と密教を併修するのだが、例えば顕教で供養回向のために南無阿弥陀仏と唱える時に、全く密教の作法をしないのかと言うと、決してそんなことはない。

 

また、反対に密教の四度加行を修する期間にも、勤行時には顕教の例懺作法(法華経を中心とする法華懺法と阿弥陀経を中心とする例時作法)を厳修する。

 

法華経、念仏、坐禅止観、密教、すべてを併修し、体得していればこそ、読経や法要中の起居進退も壇上での読経作法も護身法を始めとする密教の作法も、そして日常生活におけるすべての所作すらもが唯一心に帰一するというのが、天台円教の教えだ。

 

供養のため、祈願のため、或いはお盆の棚経のためなどに、ほんの短いお経を上げる時でも作法通りに座に就き、護身法を結び、姿勢を調えて読経することで、後ろでお参りしている人たちに仏の教えを伝えているという自覚を持つ、それが私たちの顕密一致だ。

 

四国遍路で出会った遍路宿の行者さんのことを時折り思い出す度に、今ならこういう風に考えていますと、ふと伝えてみたくなる。

 

 

 

                    おしまい。

 

※拙ブログ「比叡山と大峯山 二つの千日回峰行」もご覧ください。

 

「ホームページ アジアのお坊さん 本編」もご覧ください。

 

※「顕教にしろ密教にしろ、ともに三業を並べ運んで成仏を期せんとする純粋な仏道修行そのものである、本宗法儀のもつ「菩薩行」としての性格の意義を見失ってはならない」

      ー 天台宗布教手帳より