比叡山と大峯山…二つの千日回峰行 | アジアのお坊さん 番外編

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比叡山の千日回峰行とは別に、吉野の金峯山で行われている大峯千日回峰行については何度も推敲の上で再投稿しているのだが、まだまだ誤解されている方が世の中には多いようなので、改めてまとめてみることにする。

 
さて、この大峯千日回峰行という行は、1000年以上の歴史がある比叡山の千日回峰行を模して、近年に始まったものだ。 つまり、この行自体は新しい行なのだが、大峯山を始めとする各地の山岳霊場を開いたとされる役行者は7世紀頃の人だから、大峯山の歴史そのものは、比叡山より古い。
 
ちなみに、「太平記」の「芳野炎上の事」などによれば、金峯山寺のご本尊である蔵王権現は、役行者が大峯山の山上ヶ岳に「一千日間」籠もって感得した仏さまなのだという。
 
そして、比叡山の回峰行の創始者である相応和尚(そうおうかしょう)は大体9世紀頃の人であり、相応和尚の時代には、役行者に始まる修験道や山岳修行が相当に盛んになっていたらしく、そうした時代の波を踏まえて、比叡山における相応和尚の回峰行も始まったのではないかと言われているのだが、ただ、実際のところ、現在の比叡山の回峰行と、その他の修験道の間には、内容にもスタイルにも、ずいぶんと隔たりがある。
 
ところで修験道には天台系の本山派と真言系の当山派があるが、本山派の天台系というのは比叡山の山門派ではなく、三井寺の寺門派のことだ。本山派、当山派のどちらでも行われている大峯の奥駆けと呼ばれる行は、明治以前から行われている古い行だが、どちらにしても、比叡山の千日回峰行は、それらの現在の修験道と、直接には関係がない。
 
相応和尚に始まる比叡山の千日回峰行は、記録の確かな明治以降の阿闍梨さん(行者さん)だけに限って紹介されることも多いけれど、実は相応和尚以来、徐々に形を整えながら、信長による叡山焼き討ちの期間などを除いて、千年以上、連綿と続いて来た修行だ。
 
一方で、大峯山の千日回峰行は、比叡山の回峰行者、故・箱崎文應師の協力によって、ごく最近に行われるようになったものだ。大峯回峰行を行っている金峯山修験本宗と天台宗とは、同じ天台系寺院として、縁故宗派と呼ばれる関係にある。
 
この大峯の千日回峰行の満行者は、現在のところ、まだ二人しかおられない。それは歴史が浅いが故に満行者の数が少ないということだから、「大峯千日回峰行を満行したのは、1300年間の間にたった二人しかいないから、すごい行だ」という、最近のメディアで盛んに言われている論調は、故意か否かは別として、大変に恣意的であり、語弊がある。
 
そうしたメディアの影響でか、近頃は大峯回峰行のことも徐々に世間に知られるようになり、露出も増えている中で、こうした事情を知らない人たちが、大峯の回峰行の方が距離数が長い分大変だとか、インターネット上でいい加減なことを、たくさん書いておられたりする。
 
近年に新しく始まった行だからと言って貶めるつもりはないし、あくまでも行というものは仏法を体得するために行じるものであるから優劣はないのだが、ただ、たとえ役行者に始まる大峯山の歴史も含めた、先行する諸々の行を踏まえて成り立っているにしても、大峯の千日回峰行は、戦後になって始まったばかりの歴史の浅い行であるという事実は、きちんと抑えておくべきだ。どの行についても正確に理解をすることが、仏法を正しく伝えることになるのだから。 
 
 
※「比叡山時報」第723号(平成27年5月8日発行)には、飯室回峰を復興した箱崎師が千日回峰行満行後、現行の比良八講の次第を整え、「大峯山天井返し」と呼ばれる難行や、大峯奥駆け五十度などを達成したことが記されています。

 

 

                       おしまい。