瞑想の対象についての覚え書き | アジアのお坊さん 番外編

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旅とアジアと仏教の三題噺

歴史的に言えば、インドの宗教(当時はヒンドゥー教という言葉や概念はなかった)が仏教に影響を与えてチベット密教や中国密教を形成し、中国の密教は日本において、天台宗や真言宗に取り入れられた。

 

密教の行軌には、しばしば「観想」という文字が出て来るのだが、どちらかと言えば真言宗の行法として世間に知られている阿字観を始めとして、何かを心の中にイメージすることによって成立する「観想」こそが、密教の行法の眼目ではある。

 

さて、密教以外にも「観無量寿経」が説く阿弥陀仏の観想を始め、大乗仏教において仏を観想する「観仏」という行法は、天台宗の十二年籠山比丘による好想行を含め様々に存在し、似たような言葉として、「観法」「観心」「観念」「観行」などという用語・概念も存在する。

 

テーラワーダ仏教における瞑想は、一見そうした密教の瞑想とはかけ離れているようにも見えるが、呼吸に集中するアーナパーナサティ瞑想において、パーリ語でニミッタと呼ばれる、心中に現れる仮想像についての教えもあるし、少々異端的とは言え、タイのワット・パクナム寺院に端を発するタンマカイ派における、水晶の珠を心中に観想する瞑想法などもあるのだから、「観想」という行法や概念が、一概にブッダ直伝ではない大乗仏教特有の修行法だとは言い切れない。

 

ニミッタに関しては、日本語のインターネットサイトにもテーラワーダ仏教に詳しい方たちのお考えがたくさん探せるので無学者が余計なことを言うのは控え、プッタタート比丘の「観息正念」(三橋ヴィプラティッサ比丘・日本語訳)のニミッタに関する箇所を抜粋するに留めさせて頂くことに致します。

 

                 おしまい。

 

 

 

ある心象風景を描き出す 

もし、見守っている一点で仮想の像を描き出すと、呼吸はさらに精錬され、 静かになる。この場合の仮想像は実在のものではなく、想像上のものである。心で創られる。人工のものである。眼を閉じてそれを観る。また、眼を開けても依然としてそれが観えるだろう。その像は、呼吸を静めるため、呼吸が自ら創りだした幻のようなものだ。これを創るためには、心が精妙でなければならない。仮想像を生み出すためには、呼吸が全機能こぞって洗練されてなければ ならない。呼吸は像が創りだされるまで、さらに滑らかに、かつ、静かにならねばならない。

 

最終仮想像

われわれは、最適の像を一つ選び、完全なる正定(心の安定と統合)を実現するため、全意識を集中し、瞑想する。最適な像を一つ選ぶのだが、それは心を和らげるもの、くつろげるもの、容易に集中できるもの、にすべきだ。その像は思考や感情を掻き乱したり、なにか特別な意義とか意味を内蔵するものであってはならない。

 

完全なる集中(禅定) 

瞑想すべき対象には、心にとって、もっともふさわしいものを選ぶべきである。心は通常、四方八方、あらゆる方向に拡散している。いま、われわれのしなければならぬことは、この外側に流れているのを止めるために、内面の、焦点一つに心を向けさせることだ。この状態を「一点集中」と呼び、その意味は、「一つの頂点、焦点、あるいは、中心点を手にする」である。一切がこの焦点一つに結集されるのである。われわれはすでに、最適な一つの像、小さな中心点を見つけた。そして、いま、心はそれに焦点を合わせている。」 

 

※プッタタート比丘「観息正念」(三橋ヴィプラティッサ比丘・日本語訳)PDF版CDーR 38-40頁より                                                      

                               

 

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