十如是の原典 | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

法華経方便品第二の中の一節である「十如是」は、法華経の真髄として、天台宗の日常勤行でもよく読誦される。

 

「仏所成就 第一希有 難解之法 唯仏与仏 乃能究尽 諸法実相 所謂諸法 如是相 如是性 如是体 如是力 如是作 如是因 如是縁 如是果 如是報 如是本末究竟等」

 

ちなみに、書き下しは以下の通り。

 

「仏の成就せる所は、第一の希有なる難解の法にして、ただ、仏と仏とのみ、乃ち能く諸法の実相を究め尽くせばなり。謂う所は、諸法の是(か)くの如きの相と、是くの如きの性、是くの如きの体、是くの如きの力、是くの如きの作、是くの如きの因、是くの如きの縁、是くの如きの果、是くの如きの報、是くの如きの本末究竟等なり。」(岩波文庫版より)

 

さらに岩波文庫のサンスクリット原典の対訳は以下の通り。

 

「如来こそ如来の教えを教示しよう。如来は個々の事象を知っており、如来こそ、あらゆる現象を教示することさえできるのだし、如来こそ、あらゆる現象を正に知っているのだ。すなわち、それらの現象が何であるか、それらの現象がどのようなものであるか、それらの現象がいかなるものであるか、それらの現象がいかなる特徴を持っているのか、それらの現象がいかなる本質を持つか、ということである。」(原典は10項目でなく、以上の5項目。鳩摩羅什の翻訳のみ何故か「十如是」となった、とのこと)

 

そして、十如是とは関係ないが、パーリ語の大般涅槃経の和訳である岩波文庫の「ブッダ 最後の旅」50頁に見える「法の鏡」という教えが、以下の通り。

 

「尊師がみごとに説かれた法は、現にありありと見られるものであり、直ちに効き目のあるものであり、実際に確かめられるものであり、理想の境地にみちびくものであり、諸々の知者が各自みずから証するものである。」

 

この個所はパーリ語の日常経典にもよく登場し、テーラワーダ仏教における朝課などでもよく唱えられる、日常勤行小経となっている。

 

「法は誰にでも理解できる」という「法の鏡」の表現と「法は仏同士にしか理解できない」という「十如是」の表現は、一見それぞれ正反対のようでいて、表裏一体の内容であるように、私には思える。

 

 

             おしまい。

 

「ホームページ アジアのお坊さん 本編」もご覧ください。