「諸行無常」「一切皆苦」「諸法無我」の三法印は、ダンマパダの第20章にも説かれている(岩波文庫「ブッダの真理のことば」では49頁の277、228、279句)が、テーラワーダ仏教の勤行においても、この三法印はよく出て来る。
例えば下の画像は日本人比丘であるプラ・落合・マハ-プンニョ師の「テーラワーダ仏教の修家作法」中の「朝課」の一部分だ。
さらに下の画像は、タイの燦々社から出ていたポー・オー・パユットー師による「自己開発 上座部佛教の心髄」(野中耕一訳)の一部分(この本は後に「テーラワーダ仏教の実践 ブッダの教える自己開発」というタイトルで野中氏訳を改訳した新装版が日本のサンガから出版された)なのだが、ここでは三法印が「三相」と表現されている。
さて、日本の仏教辞書などでは、大乗仏教における三法印の内の「一切皆苦」が「涅槃寂静」に変わっていたり、或いは「涅槃寂静」と「一切皆苦」の両方を含めて「四法印」とされていたりする。
また、日本の仏教書などで、「一切皆苦」は一般の人には受け入れ難い教えだったために「涅槃寂静」に替えられたのだとか、もしくは「一切皆苦」を前面に押し出さないことになったのだ、といった説明がなされているのを、時折り見かけることがある。
しかし、「苦」=「dukha」とは仏教における、世界に対する根本認識なのであって、「一切皆苦」とは「人生は苦しいものだ」という世間的な意味ではないのだから、ちょっとこの手の説明には問題があると思う。
ただし、下の画像(台湾の「開始讀懂佛経」という仏教入門書の一部)のように、中国仏教系の大乗仏教でもやはり「一切皆苦」を省いて「涅槃寂静」を含めたものを三法印とするので、日本の大乗仏教だけがこうした改変を加えたという訳では決してない。
かと言って、それならば、中国仏教史的にいつどこの時点で誰が「一切皆苦」を省いて「涅槃寂静」を加えるような改変を加えたのかを、私は知らない。
おしまい。
※「ホームページ アジアのお坊さん 図書館」もご覧ください。
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プッタタート比丘「仏教人生読本」21頁 (三橋ヴィプラティッサ比丘・日本語訳)より
「一切の事物は、如何なるものであれ、不断の変化(無常)という特質を持っ ている。すべては不安定なのだ。 一切の事物は、如何なるものであれ、不満足(皆苦)という特質を持ってい る。他方、この特質が理解されると、誰にでも、その資質に優れた洞察力が生 じ、事物への幻滅、迷妄からの覚醒が呼び起こされる。 一切の事物は、如何なるものであれ、それを「我がもの」とみなせるものは 何一つない(無我)。普通は、通常の観察のせいで、事物が「それ自身」とし て見えてしまう。ところが、観察力が明瞭、明快、正確になれば即座に、どん な事物にも「自己本体」なる本質は存在しない、と確認される。 この三つの特質こそ、仏陀の教えの中で、他の何にもまして強調される「仏 法のありよう」なのだ。仏法のすべてを集約すれば「無常・皆苦・無我を洞察 する」に尽きる。