読経の力 | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

お坊さんになって余り場数を踏んでいない頃、葬儀の後で喪主さんに、「結構なお経を頂戴しまして」と言われ、それが冠婚葬祭の決まり文句だと知らずに、「いえいえ、それほどでも」みたいな返事をしてしまったことがある。それはともかくとして、日本では「お経が上手い」「お経が下手だ」などという表現を、日常よく耳にするように思う。
 
ブッダの在世当時以降しばらくは、ブッダの教えが暗誦によって伝えられて来たけれど、暗誦の上手さが一番に求められていた訳ではないのだから、読経の上手下手を云々することは、必ずしも仏教の本義に適ったことではない。
 
ただ、確かに誰が聞いても「お経が上手くないお坊さん」という存在もあるにはあるので、やはり「お経の下手さ」が単なる抑揚の癖ではなくて、明らかに場数の少なさや経験の少なさに基づく素人臭さであるならば、さらに精進し、研鑽を積むべき余地があるとは思う。
 
読経の上手下手だけが僧侶の全てではないが、読経の上手下手に僧侶としての修行や経験の蓄積が全て反映されているということもまた事実なので、そうした蓄積によってお経を聞いている方に感銘を与えることが、お経の内容と相俟って他者に対する利他行となる上に、お経を上げているお坊さん自身の心をも調える自利の行にもなる訳だ。

 

 

まだまだ修行の至らぬ身で、心乱れることも多い中、毎日お経を上げさせて頂き、心を調えて、気づき(sati)を取り戻す機会を与えられていることは、有り難いことだと心底思う。
        
            おしまい。

 

 

※画像はタイで買ったお経のVCDです。
※以前に投稿した読経に関するいくつかの記事を纏めて推敲致しました。