大乗とテーラワーダの間には | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

私が日本の天台宗で得度してお坊さんになってから、タイで上座部(テーラワーダ)仏教僧として修行させて頂いた後も含めて、「大乗仏教」と「テーラワーダ仏教」、及び蔑称である「小乗仏教」という言葉に関して実際に見聞したあれこれを、箇条書きで列記してみることにする。

 

 

・得度してすぐ、本山に上がる前の小僧修行中、私より年の若い先輩僧が、「その考えは小乗的だ」という言葉を口にしたので、こうした表現や考えが、宗門校などでは日常的なのだろうかと思った覚えがある。

 

・その後、本山での修行を終え、正式な教師資格を取得後、タイで留学僧としてテーラワーダ比丘体験をさせて頂いた。その頃に、留学のためにテーラワーダで得度されていた真言宗の若いお坊さんと出会ったのだが、その方が大乗仏教が進化した最終形態が真言密教であるとか、テーラワーダ仏教ではいくら修行しても阿羅漢の境地までしかたどり着けないんだ、みたいなことを仰っておられたので、やはり宗門校などで、こんな風に教わるのだろうか、などと思ったものだ。

 

・タイで出会ったタイ人のお坊さんに、私が日本の大乗(マハーヤーナ)仏教のお坊さんであったという略歴を述べたら、中には自らを指して「ヒーナヤーナ(小乗)」と表現する方がおられたので驚いたのだが、後で聞いたところによれば、謙遜の意味でこうした表現を敢えてされるテーラワーダ僧の方が、多くはないが時々おられるとのことだった。

 

・反対に、もちろん大乗仏教、特に日本の仏教の批判をするテーラワーダ僧は多くいる。日本のお坊さんが結婚したり酒を飲んだりすることはタイの一般人にもよく知られているので日本仏教の批判はよく耳にしたが、当時出会ったスリランカ僧の中には、大乗仏教僧全体を見下している方もおられた。

 

・日本でも、大乗仏教は出家と在家の区別が明確でない仏教であるなどと、本やインターネットに書いてあることが多いのだが、出家在家の区別が明確でないのは、あくまで日本仏教だけのことであって、チベットでも台湾でも韓国でも、日本以外の大乗仏教僧は厳しく戒律を守る、歴とした出家者だ。

 

・タイでの修行後、インドのブッダガヤにある印度山日本寺に駐在させて頂いた。ブッダガヤにはテーラワーダ仏教、チベット仏教、日本を含む大乗仏教の各寺院が混在していて、どちらかと言えばさほどの確執も齟齬もなく仲良く修行・駐在し合っている感じではあった。

 

・しかし、日本寺を訪れる日本人団体の中にはテーラワーダ仏教を信奉するグループも時にはおられて、この方たちの日本仏教嫌いがなかなかに激しかった。同行の日本語を流暢に話すテーラワーダ僧の方を指して、この方たちは午後に食事をなさらないのよなどと声高に説明なさる女性リーダーもおられたが、タイやインドで修行させて頂いている我々からするとごく常識的な誰でも知っている知識を得々と仰ることに、却って違和感を覚えた。

 

・さらに時代は下り、徐々に日本でもテーラワーダ仏教や、その主要な修行方法であるヴィパッサナ瞑想が、その西洋的受容とも言える「マインドフルネス」という言葉の流行とも相俟って、大変よく知られるようになった。

 

・けれど乱立と言っても良いほどの数になった、日本のテーラワーダ仏教系グループの中には、辛辣な大乗仏教批判をされる方たちも多い。

 

・一方で日本の仏教者の中にはいまだにテーラワーダを「小乗」と呼んで憚らない方たちが山のようにおられるし、テーラワーダ仏教を信奉したり布教している日本人の方が、露骨な横槍を入れられることも珍しくないと聞く。まだまだこの辺りの事情には、私がお坊さんになった頃から大して変わらない、深い溝が横たわったままなのかも知れない。

 

・そこでもう何度も以前から書いている同じ話で恐縮ながら、私がお坊さんになりたての小僧修行中に、お寺の古新聞の束の中から見つけた1991年7月8日付の「中外日報」の記事の話をさせて頂く。

そこにスリランカの元大統領ジャヤワルダナ(中外の表記はジャヤワルデネ)氏の講演記録が載っていたのだが、元大統領は鈴木大拙に日本とスリランカの仏教の違いについて質問したことがあるのだという。

そうしたら大拙は、なぜ違いを強調するのか、世界中の仏教徒は仏法僧に帰依し、諸行無常、一切皆苦、諸法無我を奉じているではないか、各国の実践方法と文化や社会が違うだけではないかと答えたという。

 

・例えば佐々木閑氏のように、「日本のお坊さんの中にはテーラワーダであれ、大乗であれ、宗派や教えの多少の違いはあっても、目指す山の頂きは一つである、と仰る方も多いが、情緒的にのみ、そう考えるのは大間違いである」といった意味の意見を持つ方もある。佐々木氏は現在のテーラワーダ仏教、日本のテーラワーダ仏教、日本の大乗仏教各宗派それぞれに対して、現実的な実際の事情も学問的な教義も詳しくご存知の上で、自身の斬新な新説も含めて論理的な思考と該博な知識で、今の世界の仏教について発信されている学者さんではある。

 

・だがしかし、ジャヤワルダナ氏が感銘を受けたという上の鈴木大拙の言葉は、小僧だった私がその後アジアで修行させて頂く時にも常に私の心の内にあった。今にして思えば大拙は、そういうものなんですよ、そうでしょう? と情緒的に、或いは断定的に言っているのではなく、そうあるべきではないですか、そうだと信じて、それを踏まえて我ら仏教徒は行動するべきではないですかという理想も込めて、この言葉を元大統領に答えたのではないかと思う。

 

・ティック・ナット・ハン師は「禅への鍵」(春秋社)の中で、例えば所作の度に偈文を唱えたりすることも含めた大乗仏教の僧院におけるいろんな作法も、全てテーラワーダ仏教と同じく、「念=サティ sati=気づき=マインドフルネス」がその基本となっていることを説いておられる。

 

・佐々木閑氏が例えば「大乗仏教」(NHK出版新書)などで、「釈迦の仏教」から変異したものとして解説しておられる法華経、浄土教、密教、華厳経、禅といった日本仏教のいろんな要素を全て含む天台宗の僧侶である私は、「sati」を基礎とするテーラワーダ仏教を学んだことによって、現在、日本仏教の僧侶として、上記のような多彩な教えに基づいた、法要・葬儀・供養・回向・祈祷・勤行といった日常的な実際の法務や坐禅修行を並行して行うことに、何ら矛盾を感じない。そして、常に「sati=気づき」を踏まえて我ら仏教徒は行動するべきだと、僭越ながら心ひそかに思っている次第だ。

 

 

                               おしまい。

 

 

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※2020年6月13日 追記

ちなみに「大乗仏教」の中で、佐々木氏は鈴木大拙に関する批判すべき点を述べておられらますが、私自身は上記「中外日報」における大拙の記事にのみ多大な共感があり、大拙の思想の信奉者(?)ではないことを、一言お断りしておきますので悪しからず。