アジアの房舎施 | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

プラユキ・ナラテボー師の「苦しまなくて、いいんだよ」にも説かれている「無財の七施」は、大乗経典である雑宝蔵経に出て来るということで、日本のお坊さんの法話や仏教書にもよく登場するが、その内の「房舎施」即ち泊まる部屋や場所を提供する布施行について、少しく思うところを述べてみたい。
 
と言うのも、先日、「アジアの東司…お寺のトイレ」という記事を書かせて頂いた時にふと思ったのだが、お寺の境内には公衆トイレのあることが多い。私もよそのお寺でよくトイレを拝借する方だが、時にはお寺参りの方ではない営業中の運転手さんなどが、お手洗いを使用なさることもあるけれど、それはそれで、房舎施と同じく、寺からすれば大事な布施行であろうと思う。
 
私も托鉢行脚中のお手洗いの所在と言うのは大変大事な問題だった思い出があるし、お坊さんになる遥か昔、大人に連れられてトイレのない神社の村祭りの縁日に行き、年長の子供がトイレが我慢できなくなって、仕方なく引率の大人が近所の商店にお手洗いを貸してくれるよう頼んだが断られ、結果、その子供は、といった出来事も、これを書いていて思い出したものだ。
 
トイレのことはさて置き、一夜の宿を貸すことについて言えば、宿を旅人に貸さなかったことを死ぬまで後悔する小川未明の「二度と通らない旅人」のような童話もあれば、遊女であるところの江口の君に対して、宿を借りる貸さないについての和歌問答をする西行法師の挿話もあるが、昔の旅人は野宿するよりも、人の家や寺などで一夜の宿を借りる方が一般的であったればこそ、房舎施という項目が、「無財の七施」に含まれているのだろうと思う。
 
我々現代日本の僧侶が托鉢行脚する時は、却って環境も機材も昔より充実しているので、野宿もさほど過酷ではないのだから、古の高僧以上の山林頭陀修行を自分がしているなどとは、ゆめゆめ思わぬようにしたいものだ。弘法大師が宿を断られたので仕方なく橋の下で野宿したら、一夜が十夜にも思えるほど辛かったという伝説に基づく四国遍路道中の十夜ケ橋という旧跡もそうした事情を表しているだろうし、「入唐求法巡礼行記」を見ても、慈覚大師円仁は可能な限りはお寺か現地人の家に泊めてもらっている。
 
インドにはダラムシャラーという巡礼宿があること、それは日本の遍路宿や善根宿と軌を一にするものだということ、タイなどのテーラワーダ仏教圏のお寺では僧侶や在家信者を気軽に泊めてくれる習慣があることなどについては、「ホームページ アジアのお坊さん アジアの宿坊」などにも、詳しく書かせて頂いた。
 
近頃、よく活字などで目にする機会のある「無財の七施」の内、今では余り実感がないためか、さらっと説明されがちな「房舎施」ではあるが、きっと一夜の宿の布施というものは、修行者や旅人にとって、何より有り難いお布施だっただろうと、私は思う。
 
 
※例えば天台宗一隅を照らす運動のホームページに奉仕の精神を表す教えとして無財の七施が紹介されていますが、その中の房舎施の説明は…
 
「自分の家を提供すること。四国にはお遍路さんをもてなす「お接待」(おせったい)という習慣が残っています。人を家に泊めてあげたり、休息の場を提供することは様々な面で大変なことですが、普段から来客に対してあたたかくおもてなしをしましょう。平素から喜んでお迎えできるように家の整理整頓や掃除も心がけたいものです。また、軒下など風雨をしのぐ所を与えることや、雨の時に相手に傘を差し掛ける思いやりの行為も房舎施の一つといえるでしょう。」
 
…となっています。