チベットの南無阿弥陀仏 | アジアのお坊さん 番外編

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旅とアジアと仏教の三題噺

昔、日本の新聞に、パンチェン・ラマがチベットのタルシンボ寺の法要に出席したというニュースに関連して、32メートルの巨大なタンカ(仏画)に、「元量光仏」が描かれている、と書いた記事が載っていた。

多分これは「無量光仏」の「無」の別字である「无」という字を記者が読めなかったか、もしくは印刷段階での誤植だったに違いない。有りそうな間違いだなあと思って、いまだに記憶に残っている。

チベット仏教(のゲルグ派)では、ダライ・ラマ貌下が観世音菩薩の化身、パンチェン・ラマが無量光如来の化身とされていることに基づく儀式だった訳だが、かくの如く、密教においては阿弥陀如来も、「南無阿弥陀仏」と一心に念仏を唱える対象であるよりは、むしろ観法における一尊なのであり、だからこそ日本の密教における曼荼羅にも、阿弥陀如来=無量光如来が描かれている訳だ。

さて、私の属する天台宗は四宗綜合と言って、法華経、坐禅、念仏、密教(円・密・禅・戒の四宗に後から念仏浄土門が加わる)の全てを修める宗派なので、例えば私が読経の時に合掌して南無阿弥陀仏の念仏を唱えていて、ふっと心に雑念が兆した時に、そっと両手を定印の形に結んで心を調えつつ口に念仏を唱えても、間違いではない訳だ。

私がアジア修行を一旦終えた後に、初めて日本でプラユキ・ナラテボー師に再会した時に、日本のお寺で読経中にも、雑念が起こったら、その時点その時点でまたお経に戻って来る、という作業を続けることで、普通の日本のお寺の法務の間にも、サティ(念=気づき)を得ることが可能ですよと教えて頂き、目から鱗が落ちた覚えがあるのだが、念仏もまた然りだと思う。

浄土宗や浄土真宗のような絶対他力の念仏門の宗派とはまた違い、天台宗では「己心の弥陀・唯心の浄土」と言い、自身の心を離れての「南無阿弥陀仏」は有り得ないと考えるし、また密教の修法において、阿弥陀仏を観想することもある訳だから、念仏中に心を調えるというのは、教義的にも理に適っているはずだということを、南無阿弥陀仏を唱えながら雑念が兆した時に、ふと思ったというお話なんですが…。


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                         おしまい。
    

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