水島上等兵がビルマで出家することは可能だったか? | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

                           
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竹山道雄の「ビルマの竪琴」について、現地では長年修行しなければ僧侶になれないのに、主人公が簡単にお坊さんになったのがおかしい、という批判があるそうだ。

だが、ミャンマーを始めとするテーラワーダ(上座部)仏教諸国では、もちろん出家を安易に捉えることは戒められるべきだとしても、僧侶になること自体は決して難しいことではない。十戒を授かる沙弥(小僧さん)であっても、227戒を授かる比丘(僧侶)であっても、授戒すれば皆すべて等しく小僧さんとお坊さんなのであって、僧侶としての修行はそれから後に始まる訳だ。

だから、お坊さんになるためには所定の行を終えなければならず、その行が結構、大変なものであるというイメージを持つ日本人の方が、さらに厳しい戒律を守る南方上座部仏教僧に、日本の兵隊が簡単になれる訳がないと思われるのも無理はないが、実は水島上等兵がビルマのお坊さんになる、という設定自体は、けっしてあり得ないことではないのだ。

ただ、この作品の中でお坊さんになった水島上等兵は、やたら誰彼なしに合掌するのだが、これはあり得ない話だ。テーラワーダのお坊さんは、お坊さん同士が合掌することはあっても、一般在家の人に対して合掌してはいけない決まりになっている。

また、多くの人が指摘する通り、テーラワーダ仏教のお坊さんには歌舞音曲に携わってはいけないという戒律があるので、お坊さんが竪琴を弾くという、この作品の根幹を成す基本設定は、残念ながら実際にはあり得ない。ちなみに、音楽に携わらないというこの戒律は沙弥の十戒にすら含まれており、テーラワーダのお坊さんは、鼻歌を歌うことも許されていない。

とは言うものの、前にも書かせて頂いたことがあるのだが、著者の竹山道雄は一度もビルマ(現ミャンマー)を訪れたことがない時点でこの作品を書いており、僧侶に関すること以外にも、この作品に対して諸々の批判や擁護の議論があるのはさて置いて、空想と少しの資料だけで、アジアを舞台にこれだけの作品を著せた作者の力量は、大したものではないかと私は思う。

テラワーダ仏教のことを余りよくご存知でない方に、テーラワーダ僧経験があることを伝える時、私は「ビルマの竪琴みたいな袈裟を着て…」などと表現させて頂くことが多いのだが、黄衣の僧侶のイメージを日本人に印象付けたというだけでも、この作品の意義は大きいと思う。

※写真はミャンマーで購入したシン・ティワリ尊者の像です。
ちなみに、ミャンマー人の男子が通過儀礼として、一生に一度は出家することや、ミャンマーにおける沙弥、比丘の得度式の次第については、「ビルマ仏教」(池田正隆著・法藏館)に詳しい記載があります。

ホームページ「アジアのお坊さん」本編も是非ご覧ください!!

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