私と「落語と私」 | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

上方落語界の至宝、桂米朝師匠がご逝去されて早三ヶ月、神道式のお葬式だったから、もう少ししたら百日祭だろうか。

今だにテレビでは米朝師の特集番組が新たに組まれ続けるほど、その功績は計り知れず、そうした特集の中で、師の名著「落語と私」が朗読されることもしばしばだ。

「落語と私」はその昔、ポプラ社から児童向け入門書として出ていた本で、私も子どもの頃、図書館で借りて読んだことがあるが、平易な文章でありながら、大人が読んでも十分に鑑賞に堪える内容だったため、その後、文春文庫に入って、長く版を重ねている。

で、NHKを始め、そうした番組の中で、この本が紹介されることが多いのは誠に喜ばしいことながら、その引用具合にちょっと気になることがある。

例えばよく引用される、最終章内のこの箇所。

ー「落語は現世肯定の芸であります。大きなことは望まない。泣いたり笑ったりしながら、一日一日がすぎて、なんとか子や孫が育って自分はとしよりになって、やがて死ぬんだ…それでいいーというような芸です」

全体を読まずにここだけを知らない人が聞いたら、この文章は、「普通であることをよしとする、ちょっと気取った文章」だと思わないだろうか?

落語というのが如何に特殊な芸であり、そして咄家には如何に変わった人が多いかという話が、巻頭からずっと語られた後にこの文章が来るから重みがあるのであって、米朝師の追悼番組・特集番組は、どれも切り口・語り口は違えど好ましいものばかりなので、決して文句を言っている訳ではないのだが、ただこの箇所が思い入れたっぷりのきれいな標準語で朗読されることだけが、とても気になる。

この引用文の後に、咄家はしょせん世の中のお余りで食べさせてもらっている遊民であって、という文章が続き、そしてこの章のタイトルは、「末路哀れは覚悟の前やで」という、米朝師の師匠・先代米團治師の言葉から採られていることからも分かる通り、米朝師が落語の基盤は「ごく普通の「常識」、これであると思います」と仰っておられる意味は、きっともっと深い。

ともあれ、最近に書店で面出しされていた「落語と私」の奥付けによれば、この本は米朝師のご逝去の後、また新たに版を重ねたようだ。一人でも多くの方が、この不朽の名著を手に取って下さることを、心より願う。


※米朝師のお葬式の様子については、
ご覧下さい!!


ホームページ「アジアのお坊さん」本編も是非ご覧ください!!


※お知らせ※
タイの高僧プッタタート比丘の著作の
三橋ヴィプラティッサ比丘による日本語訳CD、
アーナパーナサティ瞑想の解説書「観息正念」、
並びに仏教の要諦の解説書「仏教人生読本」を入手ご希望の方は
タイ プッタタート比丘 「仏教人生読本」「観息正念」改訂CDーR版 頒布のお知らせをご参照下さい。