他のお寺さんなどに確認したことはないので、私だけが気になっているのかも知れないが、近頃、可愛い文字で「こころばかり…」と印刷された封筒にお布施を入れて来た方を、2、3度、見かけた。
こういう商品が、よく売られているであろうことは、別段、想像に難くない。でも、これをお寺へのお布施袋として使用するのは、如何なものなのだろうか?
「心ばかり」ではなく、たっぷりのお金をお布施しろと言っている訳でないのは、言うまでもないけれど、例えば「心ばかり」と同じ意味の「寸志」という言葉は、「気持ちだけで申し訳ございませんが…」と言って、へりくだる言葉であるとは言え、どちらかと言えば、目上の者が、目下の者に対して心遣いをする時に使うものだ。
ちょっと余談ながら、あるおばあさんが、お年玉の袋がいっぱい家に余っているからと言って、月参りのお寺さんに、一言断りながらではあるものの、お年玉用ポチ袋でお布施を渡しておられたという話を聞いたことがあるのだが、要らない袋をお寺がもらってくれたら、袋も無駄にならないし、一石二鳥だから、失礼を承知の上で、まあいいかというようなぞんざいな心こそ、「布施」の精神から、遥かに遠い所にあるように思う。
「こころばかり…」の袋を使う人は、それとは違って、わざわざお寺にお布施をするために、きれいな袋を新たに買い求めて用意してくれたのかも知れないけれど、やっぱり言葉は正しくあるべきだから、お寺へのお供えには、「布施」と書いてあるべきだ。
そう言えば、これを書いていて思い出したが、お布施の袋に「寸志」と書いてあるのも何度か見たことがある。本人は、そんなつもりではなくても、極端に言えば、「僅かで申し訳ございませんが、気持ちだけ包んで持って来させてもらいましたから、まあ、よろしかったら、どうぞ」とでも言いたげに、私には見える。
金額の多少は、全く問題ではない。だが、「心ばかり」ではなく、「ありったけの気持ち」を他者に対して捧げることこそが、「布施」というものの、本質なのではないのかなあ…?
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