草履の煩悩 | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

たとえ裸足でなく、靴履きであっても、土の上を歩くのは気持ちがいい。千日回峰行者の方が、京都の切り廻りや大廻りで、京都市内のアスファルトの上を歩くと、普段、比叡山中を歩いているのに比べて、草鞋履きの足が痛いというお話を、よくお聞きする。

長い蓄積のある回峰行、今も比叡山の諸堂に、行者さんたちの履きつぶした草鞋がぶら下げてあるのを目にするが、一方で情けない私事ながら、初めて四国を托鉢行脚する時に、まずは形からと思って、履いたこともない草鞋を購入、一泊目の遍路宿で、他の宿泊者に、お、珍しいですね、今時、草鞋とは本格的な、などと驚かれたが、生憎、実は今日、生まれて初めて履いたばかりで、紐の括り方すら覚束ない、すぐに足は痛めるわ、草鞋は履きつぶすわで。

草鞋というものが、本来、土の道に適した履物で、なおかつ、履きつぶしては、新しい草鞋に履き替えるものだということを、若僧の私は知りもしなかった。一日で草鞋がだめになり、やむなく雪駄に履き替えて、道中で出会った先達さんに教えられ、作業着屋さんで地下足袋を買って、その後は歩いた。それはタイの修行を終えた後のことで、気負っていた私は若かった。

さて、その後にインドで何年か修行して、初めて日本に帰った時、今度は小豆島行脚の旅に出たのだが、その時はチャッパル(インドの革のサンダル)履きで歩いた。岩の行場を雨の日に、履きなれたつもりのチャッパルで、つるつる滑りそうになりながら、本人は至って身軽を気取ってトコトコ歩き、やっぱり何年たっても、若気も気負いも抜けない旅ではあった。

今は、何事につけ、身の丈と状況に即した履物を履く、などと書くと大層だが、要は普通の人が普通にしているように、普通に履物を履いて歩いてるだけな訳で、別に私の修行や経験の蓄積が増えたのではなくて、間抜けな気負いが、少しはなくなっただけだ。

でも、気負いがなくならないよりは、なくなった方がまだましだということを、昨日、土の上を歩いていた時に、ふと思った次第です…。

                         おしまい。

   


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