ありますよと答えると、痛いものですか? と仰るので、身体を悪くするほど痛いくらいの水量がある滝では、行にならないので、痛いほどではないですよ、むしろ終わった後は爽快な感じです、その爽快さが身体を整え、そして心を整える縁(よすが)となる訳ですと、お答え致しました。
平家物語・巻の五の「文覚荒行の事」に、文覚上人が那智の滝で滝行をした話が出て来ますが、上人も高さ100メートル以上ある、那智の大瀑布に打たれた訳ではありません。それでは身体が砕けてしまいます。その脇にある、通称「文覚の滝」で修行されたのです。つい先年の台風で、惜しくも滝の形は無くなってしまいましたが。
さて、私がお坊さんになる前に、大学で神道学を専攻していた頃、現在の神道には、仏教におけるのと同じ意味での修行のシステムが完備していないことに疑問を持ち(こんな風に言うと、違う考えをされる方からの反論があるのは百も承知ですが)、教授に色々と質問を浴びせたものでした。
有名大社の宮司でもあったその教授は、私も若い頃には同じように悩んだよ、そして滝に打たれたこともある、けれど今はそんなことよりも、これこれを学びなさいと、いらだったようにに言われたものでした。
卒業後、生駒山の滝行場で、滝行を体験してみたりしましたが、根本も学ばずに外面だけをかじってみても、何がわかるでしょうか。
結局、私は比叡山で得度して、お坊さんになり、修行中に滝行の伝法も受けました。滝行は天台宗のお坊さんにとって、必須科目ではありませんが、たまたま行をされるお坊さんたちとご縁を頂き、正式な作法も教わりました。お坊さんになって、私は良かったと思いました。
冒頭の、私に質問された女性が訪れたお寺は、やはり天台宗のお寺で、そこの住職も、叡山の回峰行者の法脈で滝行を修されている方であろうことが、諸般の事情から、おおよそ想像ができました。
各宗派のお坊さんや、お坊さんではない行者さんたちの中に、滝行に関して一家言ある方たちがたくさんおられることも、よく分かっています。
その上で、敢えて言わせて頂きますが、お坊さんにとって滝行は、必修の行ではなく、あくまでも修行方法の一つです。
修行方法は様々ありますが、それは手段であって、目的ではありません。その最終目標は、心を調え、智慧を生じさせ、苦を消滅させることです。
『仏教実践の方法はすべて、智慧が生じるように形成されている』
ープッタタート比丘「仏教人生読本」PDF版 19頁
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