スッタニパータやダンマパダにも、肉体というものが決して美しい物質ではないこと、それがやがて滅びること、そしてその現象が我が身の上にも起こることが、繰り返し強調されている。
ただ、死が誰の上にも訪れることを思って無常を観想するならば、何も遺体を眺めなくても、自分の身内が、或いは愛しい人が、いずれは亡くなることを想像するだけでも、十分すぎるくらいではないかと思う。
子供の時に、自我が芽生えるよりも早く、自分もいつか死ぬんだ、自分の親も多分、自分より早く死ぬんだということを思って怯えた人は多いことだろう。
成長するに従って、少しはそれを忘れ、やがてまた自分が歳を取った時、そうだ、忘れていたが自分もそろそろ死ぬんだった、自分の親も間違いなくもう遠からぬ内に死ぬんだと、久しぶりに思い出した時、まあ、自分も年を取ったんだから、それは自然の摂理だからしょうがないよと思えるか、子供の時のように、恐ろしさの余り、泣き叫ぶのか。
悟りを得てもおらず、真理を諦めてもいない我々にとって、不浄観というのは、死が誰の上にも起こるという、当然だけれど、自我にとって納得しがたい事実を納得するための訓練だ。
人間なんだから悲しい時は悲しくて当然だから、親しい人の死に出会ったら、素直に悲しめばいいのだなどと、日本ではお坊さんですら、そんなことを言う。
もちろん悲しいのは当然だ。けれど、ただ素直に悲しい時は悲しめばいいのだという教えは、一見、口当たりが良さそうだけれど、それだけでは、決して悲しみを根本から癒やすことは出来ない。
辛い、悲しい、それは分かっている。それは当然だ。でも、それを乗り越え、そこから先に進むために、私たちは常に死を思い、諸行無常が厳然たる真理であることを諦めるために、常日頃から訓練すべきなのだ。
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