無常の練習 | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

 不浄観と言って、遺体の朽ち行く様を実際に眺めて無常迅速を観想する修行があり、ブッダの時代からこれは行われていたし、現代のタイなどでも、死体の写真を見たり、その他の方法によって、不浄観が修されていることは、よく知られている。

 スッタニパータやダンマパダにも、肉体というものが決して美しい物質ではないこと、それがやがて滅びること、そしてその現象が我が身の上にも起こることが、繰り返し強調されている。

 ただ、死が誰の上にも訪れることを思って無常を観想するならば、何も遺体を眺めなくても、自分の身内が、或いは愛しい人が、いずれは亡くなることを想像するだけでも、十分すぎるくらいではないかと思う。

 子供の時に、自我が芽生えるよりも早く、自分もいつか死ぬんだ、自分の親も多分、自分より早く死ぬんだということを思って怯えた人は多いことだろう。

 成長するに従って、少しはそれを忘れ、やがてまた自分が歳を取った時、そうだ、忘れていたが自分もそろそろ死ぬんだった、自分の親も間違いなくもう遠からぬ内に死ぬんだと、久しぶりに思い出した時、まあ、自分も年を取ったんだから、それは自然の摂理だからしょうがないよと思えるか、子供の時のように、恐ろしさの余り、泣き叫ぶのか。

 悟りを得てもおらず、真理を諦めてもいない我々にとって、不浄観というのは、死が誰の上にも起こるという、当然だけれど、自我にとって納得しがたい事実を納得するための訓練だ。

 人間なんだから悲しい時は悲しくて当然だから、親しい人の死に出会ったら、素直に悲しめばいいのだなどと、日本ではお坊さんですら、そんなことを言う。

 もちろん悲しいのは当然だ。けれど、ただ素直に悲しい時は悲しめばいいのだという教えは、一見、口当たりが良さそうだけれど、それだけでは、決して悲しみを根本から癒やすことは出来ない。

 辛い、悲しい、それは分かっている。それは当然だ。でも、それを乗り越え、そこから先に進むために、私たちは常に死を思い、諸行無常が厳然たる真理であることを諦めるために、常日頃から訓練すべきなのだ。
 
 
ホームページ「アジアのお坊さん」本編も是非ご覧ください!!
 
※お知らせ※
タイの高僧プッタタート比丘の著作の
三橋ヴィプラティッサ比丘による日本語訳CD、
アーナパーナサティ瞑想の解説書「観息正念」、
並びに仏教の要諦の解説書「仏教人生読本」を入手ご希望の方は、
タイ プッタタート比丘 「仏教人生読本」「観息正念」改訂CDーR版 頒布のお知らせをご参照下さい!