実を言うと、私は子どもの時に、この言葉を聞いたことがないので、数年前に、教師をされている方が、子供にこう言っているのを聞いた時には、とても違和感を感じた。
という話を人に話したら、その人は、自分は子どもの時にその言葉を使っていたけれど、それは学校の先生にその言葉を教えてもらったからだと仰っていた。
そこで、この言葉は、子供というものが、しょっちゅう他人に対して「アホ、アホ」という言葉を口にするので、それに手を焼いた学校の先生たちが、比較的、最近に言い出した言葉なのではないかと推察し、インターネットで検索してみた。
そうしたら、祖母がこの言葉をよく言っていたなどという方もおられたので、教師の方たちが、最近に、この言葉を使い出したとは言い切れないということが分かった。
おまけに、この言い方は関西特有なのかも知れないと思って、関東弁風に「馬鹿と言うやつこそ馬鹿だ」と入れてみたら、関西人以外の方たちが書いておられる記事が、たくさん出て来た。で、この言葉の由来に関する探索は、もう少し調べが付くまで、ひとまず保留とすることにした。
さて、なぜ私が、この言葉に違和感を感じるかと言えば、まずこの言葉が、事態に対して何の解決ももたらしていないからだ。ちょっとずる賢い子供だったら、「アホ言うやつが、アホや」と言い返されたら、さらにそれに対して言い返す憎たらしい言葉を、即座に10個ぐらいは簡単に思い付くことだろう。
そしてさらに、この言葉は、他人に対して「アホ」と罵ることそのものを否定していない。人のことを「アホ」と呼ぶような「アホ」なやつに対して、「お前の方がアホや」と言い返すことは、全く正当な行為だとでも言いたげだが、果たしてそれは仏教的に、或いは少なくとも道徳的に、正しい行為なのだろうか?
それよりもまず根本的に、この言葉が、一見、気の利いた言い返し方をしているかのように見えて、その実、何のひねりも面白みもないということ、それこそが私の感じる違和感の、最大の原因だ。
いっそ「アホ」に関する言葉なら、「踊る阿呆に見る阿呆、おなじ阿呆なら踊らにゃ損、損」という阿波踊りの文句の方が、よっぽどひねりが利いている上に、深い真理を突いているように思うのだけれど、いかがなものでしょうか?
おしまい。
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