托鉢行脚の最中に、善根宿に泊めて頂いた。善根宿というのは、巡礼や旅人を、お接待のために無料で泊めて下さるお宅のことだ。
その宿の主人は、修験の行者さんだった。その行者さんが、行とは何か、霊験とは、密教とはと、私を試すように矢継ぎ早に問いかけて来る。
ふん、君らはそう習ったのかね、護身法(ごしんぼう)というのは私らの先生に言わせるとね、本気で結ぶと本当に全身をバリヤのようにね、といった感じで、泊めて頂いたのはいいけれど、なかなか寝かせてもらえない。
天台宗でも真言宗でも修験道でも、密教では常に修法に際して、まず護身法という印を結ぶ。顕行と密教を併修する天台宗では、念仏でのご回向を始めとする日常のお勤めであっても、常にお勤めの前後に護身法を修する。
さて、その行者さん、ご自身の数珠をいくつも私に見せながら、私がどんな数珠を使っているかを見せてくれと、何度も何度も頼んで来る。その度に私は、泊めて頂くお部屋に置いて来てしまってとか何とか、ぬらりくらり身をかわす。
なぜなら、少し前の大嵐の日に野宿した時に、朝起きたら、数珠も輪袈裟もどこかへ飛んで行ってしまっていたので、見せたくても見せられない。こんなに修行修行と仰っておられる方に、数珠も持たずに護身法を結んでいると知られたら、何を言われることやら!
という訳で、ぬらりくらりと次の日の朝、主人に礼を言って宿を発ったのだが、私の心配は数珠よりも輪袈裟だった。その輪袈裟は、私の師匠が先代の老僧の形見だと言って下さったもので、普通の町の檀家寺の住職でありながら、こんな私を飛び込みで弟子にして下さった温厚な師匠とは言え、その輪袈裟を失くしたことを、師匠に何と報告すればいいのだろう?
寺に帰って意を決して、恐る恐るそのことを伝えたら、先年、若くして亡くなってしまった私の師匠は、なんや、そんなこと気にしてたんか? あんなん、ぼろぼろの輪袈裟やがな、それよりそんな嵐の日に野宿して、自分が無事で良かったやないか、数珠を失くしてんやったら、これあげるわ、なんか南方の木で出来た数珠らしいで、アジアが好きやねんやったら気に入るんとちゃうかと、にこにこ笑って仰った。
その数珠だけは失くさずに、今も大事に持っている。
おしまい。
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