浮世問答 | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

来てみれば ここも火宅の 宿ならめ なに住みよしと 人の言うらん
 
 と、これは一休さんが大阪の住吉に庵を結んだ時に出会った老僧に対して詠んだとされる歌で、念のために説明させて頂くと、火宅とは法華経の挿話に基づく、浮世、娑婆、煩悩に満ちたこの現実世界を表す言葉。
 
 来てみたら、ここもやっぱりしがらみだらけの浮世じゃないか、「すみよし」などとは、よく言ったものだ、という訳だが、老僧が一休に返して曰く、
 
来てみれば ここも火宅の 宿なれど 心をとめて 住めば住みよし
 
 その老僧こそは、住吉明神の化身であったということなのだが、明神も、この世が火宅であること自体は否定しなかった訳だから、やっぱりこの浮世すなわち一般社会というのは暮らしにくいものなのだろう。ちなみに、一休さんには、風刺に満ちたこんな歌もある。
 
住吉と 人は言えども 住みにくし 銭さえあれば どこも住みよし
 
 一休さんですら、晩年にはいろんな心労があったからこそ、住吉の庵で、あんな歌を詠んだのではないかと想像するのだが、さて、伝説によれば、そうやって一休さんが戦災を逃れ、大阪の南部を転々としていた同じ頃、堺の遊女、地獄太夫が一休に対して詠んだ歌、
 
山居せば 深山の奥に 住めよかし ここは浮世の さかい近きに
 
 修行って山奥でするもんじゃないんですか? ここは浮世の境に近い、文字通りの「堺」ですよ、と詠まれて一休の返した一首、
 
 一休が 身をば身ほどに 思はねば 市も山家(やまが)も 同じ住家(すみか)よ
 
 多くの人も指摘されているように、このやり取りは西行法師と江口の遊女との伝説を想起させる。一夜の宿を貸すのを断った江口の君に対して西行の一首、
 
世の中を 厭ふまでこそ 難(かた)からめ 仮の宿りを 惜しむ君かな
 
 出家するほどの決意がいる訳じゃなし、仮の宿に過ぎない浮世の一夜の宿くらい貸せるだろう、という意味。そこで江口の君が返した一首、
 
世を厭う 人とし聞かば 仮の宿に 心とむなと 思うばかりぞ
 
 まさか世を捨てたお方が、仮の宿りに過ぎない娑婆での一泊に、そんなに執着されるとは、思いもしませんでしたので、という訳だ。
 
 さてさて、そんな訳で、いくら現代日本のお寺が娑婆と地続きだとは言っても、娑婆の人たちに対して、毎日の暮らしは大変でしょうけれど、ちょっと心の持ち方を変えてみませんか? などと言っていられるんだから、やっぱりお坊さんなんて、浮世離れしていて呑気なもんだが、一般社会の皆さまが、その生活の中で心の持ち様を変えることが、いかに大変か、重々お察しした上で、数々の名歌の後に、甚だ僭越ながら、拙い川柳一句、
 
           仮の宿に 心とむなと 草枕
 
                                   おしまい。
 
 
 
ホームページ「アジアのお坊さん」本編も是非ご覧ください!!
 
※お知らせ※
タイの高僧プッタタート比丘の著作の
三橋ヴィプラティッサ比丘による日本語訳CD、
アーナパーナサティ瞑想の解説書「観息正念」、
並びに仏教の要諦の解説書「仏教人生読本」を入手ご希望の方は、
タイ プッタタート比丘 「仏教人生読本」「観息正念」改訂CDーR版 頒布のお知らせをご参照下さい!