日本の仏教や仏式葬儀のことを、葬式仏教として批判する場合によく引き合いに出されるのが、ブッダが自分の死に際して、僧侶は葬儀に関わらず、修行に専念せよと弟子たちに諭したというエピソードだ。
尤も、皆さんがその典拠とされている「マハパリニッバーナ経(大般涅槃経)」の当該箇所には、比丘(修行者)はブッダの遺体の崇拝や供養に関わるな、己の目的に専念せよという意味の言葉と共に、ブッダの遺体のかなり詳しい処置方法についての説明があるだけだから、日本仏教批判をする人たちが、ブッダが「僧侶は葬儀なんかに関わらずに、修行に専念せよ」と言ったかのように、勝手に意訳しているのは、微妙にずるい。
もちろん、初期仏教のお坊さんたちは葬儀に携わらなかったのだろうし、屁理屈の応酬で水掛け論をするつもりはないけれど、とは言っても、現代社会において、僧侶が葬儀に携わっているのは、決して日本仏教だけの特色ではない。
日本仏教の基となった中国系の仏教各国を始めとして、日本仏教を批判する方たちが、しばしば拠り所としがちな南方上座部仏教(テーラワーダ)仏教においても、僧侶は葬儀に携わる。
但し、日本と違って、テーラワーダの葬儀において、お坊さんたちは、遺体の方を向くのではなく、参列した遺族や信者の方に向かって読経し、また「死」に臨んでの説教や法話を行う。
例えば、日本人上座部僧、プラユキ・ナラテボー師の著作「気づきの瞑想を生きる」(佼成出版社)の207ページ以降にも、タイのお葬式の様子と、比丘(僧侶)のお葬式への関わり方が、詳しく述べられている。
例えば、日本人上座部僧、プラユキ・ナラテボー師の著作「気づきの瞑想を生きる」(佼成出版社)の207ページ以降にも、タイのお葬式の様子と、比丘(僧侶)のお葬式への関わり方が、詳しく述べられている。
また、同じ章の中で触れられている、日本の仏式葬儀とタイのお葬式との違いについては、日本仏教における葬儀のあり方に、大きな示唆を与えてくれるけれど、だからと言って、プラユキ師がことさらに日本仏教における葬儀のあり方を批判されている訳では決してない。ちなみに日本のお葬式でも葬儀後に僧侶が法話する場合は、当然、参列者の方に向かって話をする。
日本の仏教やお坊さんやお葬式に、いろんな問題が内在しているのは、私も重々、承知の上だ。けれど、私自身がテーラワーダ比丘としての修行も経た後に、日本で数え切れぬ程の仏式葬儀を執り行った上で痛感するのは、愛するものの死に直面した人々の悲しんだ心を整えるために、仏法がいかに有効であるかということだ。
確かに日本の仏式葬儀と違う部分はあるものの、テーラワーダ仏教でも僧侶は葬儀に携わるのだから、ブッダは自分の葬儀を執り行うなと言った、それなのに日本のお坊さんは葬儀ばかりしている、とか、テーラワーダでは会葬者に向かってお経を上げる、なのに日本ではお坊さんがただ遺体に向かって儀礼的に読経するだけだ、的に日本仏教を批判するのは、ちょっとずるいのではないかいな?
確かに日本の仏式葬儀と違う部分はあるものの、テーラワーダ仏教でも僧侶は葬儀に携わるのだから、ブッダは自分の葬儀を執り行うなと言った、それなのに日本のお坊さんは葬儀ばかりしている、とか、テーラワーダでは会葬者に向かってお経を上げる、なのに日本ではお坊さんがただ遺体に向かって儀礼的に読経するだけだ、的に日本仏教を批判するのは、ちょっとずるいのではないかいな?
そんな訳で、日本のお葬式における諸問題はともかくとして、葬儀に仏法は必要だと、私は思う。
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