パーリ語の「サティ sati」という仏教語の漢訳は「念」だけれど、この言葉では現在も上座部仏教で生き生きと使用されている「サティ」のニュアンスが伝わらないので、現代日本の上座部(テーラワーダ)仏教及びその瞑想法に携わる人たちは、「サティ」の訳語として、「気づき」という言葉を使うことが多い。
しかし、この言葉の口当たりが良すぎるせいなのか、仏教以外の他宗教に携わる方々や、宗教とは関係のない啓発本の中などで、この「気づき」という言葉が、「サティ」とは別の意味で濫用されている。
仏教者以外は「気づき」という言葉を使うなと言っているのではなくて、ただ、「サティ」以外の意味を表す「気づき」という言葉が、今の日本に満ち溢れていることに、我々はよく注意しておくべきだと思う。
「サティ」や「念」という言葉を頻繁に使わない大乗仏教の修行体系も、細部に渡ってサティを基に組み立てられているし、日常生活において「気づき」を持って所作を行うことは、お寺の中での修行と同様の効果がある。
そう思って、このブログでも、日常生活のこんな事柄は、「気づき」を高める効果があるのでは、というような話を何度も書かせて頂いた。
であるにも関わらず、だ。人の持って生まれた性質というのは、なかなか直らないもので、うっかりしたり、慌てたり、ばたばたしたり、どんくさかったりという、自分の性質の欠点も、お坊さんになって随分改善できたつもりでも、いざという時に、ついつい元の性分が顔を出す。
町で支払いをしたり、荷物を受け取ったりする時に、店のおばさんに、そんなに慌てなくていいですよ、どうぞゆっくりと、と優しく言って頂くことが、ここの所、何度もあって、お坊さんなのにこんなことではいけないではないか、改めてサティを持って生活しなければと、反省することがしばしばだ。
五念門の十二礼にも、「奢摩他行如象歩」(しゃまたぎょうにょぞうぶ)、サマタ瞑想を行ずる仏の歩みは象のようにゆったりと、とあるのに、自分と来たら、いつまでたっても小動物のようにちょこまかと…。
おしまい。