最初に断って置くけれど、在家仏教を表す「居士仏教」という言葉に関する批判を書こうとしているのでもなければ、戒名の「居士」位について云々したい訳でもなくて、「居士」という日本語に、様々な手垢が付いていないかなというのが、今日のお話だ。
ブッダの時代以来、仏教徒は4種類に分類されている。比丘、比丘尼、信士、信女、即ち出家した男子と女子、出家していない在家の男子と女子の4種類。極めて単純明快だ。
さて、家長、長者、施主などを指す「居士」という言葉の元のサンスクリット語である「グリハパティ」の字義通りの意味は、「家のご主人」だから、「在家」に近い言葉ではあるものの、一般の在家信者よりも、なお熱心に修行する信者、経験や知識の優った在家者が、「居士」であるというイメージだ。
さらに、「グリハパティ」が、中国で「居士」と訳された時点で、中国語の「居士」のニュアンスが多分に盛り込まれて、日本にこの言葉は伝わった。
ところで、仏教における最も有名な居士と言えば、大乗仏典の「維摩経」に登場する維摩居士だと思うが、大乗仏教の精華であるかのようにも称えられる「維摩経」の主人公・維摩居士のキャラクターって、ちょっと鼻に付くとは思いませんか?
或いは、古来、日本で居士と呼ばれた人々の顔ぶれを見ると、自称他称を問わず、偏屈そうな人や、我の強そうな人、ちょっと自分はただの「信士」じゃないぞ的な、一癖ある人が多くないですか?
小泉八雲の怪談でもお馴染みの果心居士はと言えば、仏教徒というよりただの怪しい幻術師だし、何か一言、言わずに済まない偏屈なオッサンのことを、世間では一言居士と称したり、揶揄するような○○居士という言葉が、世の中にたくさん存在するのを見ても、どうやら「居士」と呼ばれる人には、「徳の高い在家信者」という意味に反して、ややこしい方が多いということに、一般の日本人も、結構昔から、気づいていたという証拠ではないのかな?