・梅原猛氏の「森の思想が人類を救う」という著作は、1990年代に発表されたものだが、当時、私は一読して安易な内容だなあと思ったものだ。ところがその後、共生、癒し、エコといった、正体不明の概念が一人歩きする中で、森という言葉を耳にすることが多くなり、現在の天災や不況を受けての閉塞感と共にみんなが次世代の指針を模索する中で、この本にちなんで文明を語る言説を、最近、時々、目にするようになった。内容はともかくとして、時代が求めている気分を先取りしていたという意味では、梅原氏のこの書には、先見の明があったという訳だ。
・しかし、「森」という日本語はそれほど昔から一般的だったのか? 明治以降の文学などには、「森」というタイトルやテーマが散見するが、それ以前には木々の集まりを表すには「林」という文字を使うことが、生き物たちが暮らす人里離れた場所は「山」という言葉で表されることの方が多かったのではないかと思い、古典作品に出て来る「森」という文字を拾ってみようとは思うものの、なかなかこれは私の手には負い難い重労働だ。そこでとりあえず、森に関するあれこれを、メモ代わりに書き連ねてみる。
・初めて私がバリ島を訪れたのはタイで修行中の頃だから、その時、私は上座部僧の黄色い衣を着て、ジャワ島のジャカルタから仏教遺跡のボロブドゥール、そしてバリ島へと、ずっと長距離バスで行脚をしていた。バリ島にバスが入った途端に濃密な空気、車窓から見る熱帯の木々や植物、森の中には何か化生の生き物でもいるような気配、この島が神々と精霊の宿る島などと言われるのは、誠にこの湿潤な風土に暮らす心が生み出した、幻像の賜物なのだと納得した。
・例えば水木しげる氏の妖怪漫画の中では、舞台が日本であれ南方の島であれ、背景に細密画のような森が描かれることが多いが、決して妖怪が描き込まれていなくても、その森の絵は十分におどろおどろしい。年少の頃から異界に関心を持ち続けた水木氏が、南方での戦争体験で熱帯の風土に触れ、そこに怪異を感得し、今も南方へ通い続けておられるその心情が、こうした森の絵柄を見ていると、よく分かる。さてこそは、鬼太郎たちの棲む場所が、ゲゲゲの森と名付けられてもいるのだろう。
・インド神話ではヤクシャ(夜叉)もアプサラス(天女)も森に住むという。世界の中心スメール山、すなわち須弥山(しゅみせん)の麓に広がるヒマヴァットの森にはインド神話に登場する数々の天人鬼神妖怪たちが住んでいる。タイでもこの森はヒマパンの森として知られ、キンノン(キンナラ)たちの棲家だと認識されている。
・森は確かに魅力的だし、そこに生きる生き物たちの生態系も興味深い。あるいは例えば、タイ語の「ワット・パー=森の寺」という言葉も、確かに今の我々に必要な何かだ。
・けれどトトロの森や宮沢賢治作品における森に対する、多数の人々の絶賛を始めとする、安易な「森」崇拝の風潮には、やはり少なからぬ違和感がある。もう少し森のことは、私なりに時間をかけて考えてみたいと思う。