小僧修行をさせて頂いた京都のお寺では、毎朝の勤行時、日めくりカレンダーに書いてある金言をテーマに、小僧が一人ずつ法話の練習をすることになっていた。
言ってしまうと語弊があるが、日めくりに書いてある文句なんて、へんてつもない処世訓ばっかりで、仏教の考えとは縁遠い内容が多いのに、それを法話のネタにするのは大変じゃないかと、生意気なことを心の中で思ったものだ。
今思えば、何事を見聞きしても、それを縁に、常に法話を組み立てる習慣を作るための、あれは訓練をさせて頂いていたのだなあとは思う。
さて、ある時、日めくりの言葉が何だったかは忘れたが、私が法話の当番に当たっていて、在家出身の私が、小僧生活の中で戸惑うことばかりだったけれど、お坊さんの修行はいわば丁稚さんの修業と同じことで、理不尽と思えることにも耐えて耐えて、一人前になって行くんだと思う、という法話をした時のことだ。
老僧に烈火の如く、怒られた、怒られた。怒られただけならいいが、ああ、わしは一体何のために今までお前らに教えてきたんじゃと情けながられて、今日の勤行はこれでおしまいじゃと、勤行を打ち切られてしまった。
先輩たちに聞いても、どうしてあんなに怒るのか、なかなか面白い話だったのに、などと言ってくれるばかりだ。これは私が在家からお坊さんになった直後の出来事なので、今の私なら、お坊さんの修行と丁稚さんや職人さんの徒弟制度の根本的な違い、仏教の修行の目的とは何かについて、思うことはたくさんある。
けれどその考えは、ここでは書かない。なぜならば、この「丁稚問題」、私の中では修行、修行の折りに触れ、常に思い返すべき、いまだ継続中の大事な事柄だからだ。
おしまい。