僧侶は虫を殺しますか? | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

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 子どもの時、お盆の墓参りでカマキリを見つけて捕まえようとしたら、お盆だから採ってはいけないと大人たちに言われて、お盆だったらなぜ生き物を採ってはいけないのか、釈然としない思いだけが残った。大人たちは誰一人、その理由を明確に説明してはくれなかったから。

 さて、虫も殺さぬ、という言葉があるが、テラワーダのお坊さんは蝿も蚊も殺さない。虫の命であれ、人の命であれ、他の生き物の命を奪おうとする時には、必ず心に「やってしまえ」という怒りの心、憎しみの心、悪の心が生じているはずだ。反対に殺されようとする生き物は、殺される時、限りない苦しみと、そして恐怖を味わうことだろう。だから自分の身に置き換えて、他の生き物の命を奪ってはならないのだと、ブッダは説く。

 タイのお寺に住んで間もなく、腕を這う蟻を殺さないために、指で弾じき飛ばそうした時に弾じき損ねて、殺してしまったことがある。

 何としても戒律を守らなければならないとあくせくしていた、修行し始めの私が慌てていると、10才ぐらいの小僧さんが、わざとしたことでないのなら、拝んでおきなさい、合掌(ワイ)しておきなさいと言ってくれた。

 虫も殺さないテラワーダのお坊さんのことを、些細な戒律を形式的に守っているだけのように言う人がいる。あるいは虫の命も人の命も同じく尊いなどと言うと、偽善的な理想主義のように思うのかも知れない。

 だが戒律とは本来、自分の心に生じる悪の心を、根気強く一つずつ消し去ろうとする、絶え間ない努力を手助けするためにあるのではないのだろうか。少なくともタイを始めとする上座部仏教の国々では、年端も行かない子供たちですら、そのことを知っていたように思うのだ。


※2008年1月10日投稿分を改稿いたしました。