訪れた旅人を動物に変えてしまう魔物が山中に住むという泉鏡花の「高野聖」のあらすじは、民俗学では「旅人馬」と呼ばれるモチーフで、今昔物語集などにも見える有名な伝説だが、乱歩の「押絵と旅する男」さながらに、リアルな地名を背景に、列車で乗り合わせた男から奇妙な物語を聞く構成と、流れるような語り口は、さすがに鏡花ならではだ。
鏡花の「旅僧」「高野聖」「草迷宮」などには旅のお坊さんが出て来るし、「七宝の柱」「春昼」などにも旅僧ではないが、印象的な僧侶が出て来る。
怪異霊験を好んで描く鏡花の小説に、昔話や伝説でお馴染みの、旅のお坊さんがよく出て来るのは当然かも知れないが、明治以前の説話や文芸の物語世界と世界観を共有しつつも、鏡花の描くお坊さんたちは、近代的自我を持つ現代人として描かれている。
ところで辻村ジュサブロー、寺山修司、鈴木清順、坂東玉三郎といった、錚々たるメンバーが、みんな泉鏡花にインスパイアされているし、普通に学校でもその名を習う泉鏡花ではあるけれど、その小説は果たして一般の現代人が、普通に読みこなせる類の読み物なのだろうか。
「高野聖」はともかくとして、新潮文庫に同じく代表作として収録されている「歌行燈」、解説には「神品」などと絶賛されているものの、たとえば中高生などが一読して、そのあらすじを正確に把握できるとは思えないのだが。
いいや、大人が読んでもよく分からない。幻想文学好きを標榜する素人さんたちは、自分だけが鏡花の作品を理解できているかのように嘯くが、そうした方たちにいたく評判の良い「草迷宮」なども、正に迷宮のような文章の中で、きちんとストーリーを見失わずに最後まで読み続けるのは、意外と結構、大変だ。
ところで、平野啓一郎氏の「一月物語」が鏡花の小説の見事な再現などと言われていて、やっぱりお坊さんが出てくるのだけれど、私にはどうしてこの方が「天才」などと呼ばれているのか、まったくもって理解できない。
三島のような文体、鏡花のような文体、それはそうかも知れないが、「日蝕」も「一月物語」も、さらには氏が最近の小説や講演などで提出されている「分人主義」という意味不明な概念にしたところが、所詮は天才の小説や発想ではなくて、秀才の作文、優等生のお遊びだとしか思えない。
独特のリズムで語られる、文法すらも跳び超えた泉鏡花の魔法のような文章は、幼い頃から鏡花の身に染みついた古典の素養と、実際の人生経験によって成り立っている。決してルビ付きの漢字を多用して、幻想的なシチュエーションを頭の中で設定しただけでは、あんな作品は生まれない。
だから私は、「一月物語」をお坊さん文学とは呼ばない。難しい理屈はさて置き、素人の意見として単純に鏡花文学と「一月物語」の違いを言わせて頂ければ、「一月物語」を始めとする平野氏の小説は、ただ単に「おもろない」という一語に尽きる。