仏教と忍辱…我慢するのは、良くないことですか? | アジアのお坊さん 番外編

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 「我慢」という言葉の意味を巡る議論は、一見、とても複雑です。

 まず、「我慢するのは良いことだ」という考えは旧式な、個人の人権や自由がないがしろにされていた時代の考えだから間違っている、という意見があります。

 それとは反対に、「我慢するのは良くないことだ」という考えは、そうした古い考えや時代への反動として、「戦後民主主義的教育」とやらが推進したもので、その悪影響で現代の自堕落な社会が到来したのだから、もっと我慢することを教えるべきだ、という意見もあります。

 でも、ごく常識的に言って、わがままを押し通すことは良くないことですから、良識のある方たちが、我慢しなさいといって子供を躾けたり、躾けられたりということは、普通に世間でも見受けられます。

 ところが、そうして育ったために我慢しすぎて心を病む人もいるので、精神医療的な意味で、我慢しすぎないことを勧める方もいます。

 さらに仏教に詳しい方が議論に加わると大変です。こうした方たちは、「我慢」という言葉は本来、仏教語であって、現在使われているのとはまったく違う意味だった、などという所から説き始めて下さるものですから、初心な素人さんたちには、何が何だか分からない状態です。

 さらに「我慢」と「辛抱」と「忍耐」の違いについて述べておられる方もあるのですが、こうなるともう、「愛」と「恋」とはどう違うのかと悩む、思春期の少女の議論とおんなじで、ただ言葉の定義をひねくり回しているだけで、本質の追求には何の役にも立ちません。

 さて、怒りや苦しみを抑えて耐え忍ぶという意味の、仏教の「忍辱」(にんにく)に関連して、「仏教では我慢するのは良いことだと考えているのか?」という次元で、問い質して来る方がおられます。

 でも、仏教の「忍辱」は、あくまでも仏教の真理、つまり、縁起に依らず成り立っているものは何もなく、そして、それを理解し、体得することによってのみ、我々は苦しみから抜け出すことが出来るのだという大前提があればこその、実践徳目です。

 その大前提をスタートラインにしていれば、我慢するのが良いとか悪いとか、辛抱と我慢がどう違うのかといった問題に頭を悩ましたりしなくても、問題は自ずと解決するでしょう。
 
 仏教における「忍辱」の意味は、至って単純明快です。

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